気づき

 今は日曜日の午前中で、書斎の窓から見る空も明るく、太陽の日差しが差し込んで、今日も秋らしい天気になるだろう。土曜日ではなく変則的に今の時間に書いているのは、当然ながら諸々の仕事の関係である。昨日と一昨日はつくば市で大きな大会があって、自分も参加したので時間がなかった。今日もお昼前には出かけて、別のイベントに参加しなければならないので、今がブログ執筆の時間である。もちろん自分のような年配者に、このようなオファーがあること自体は有難く、また喜びでもある。

 自分が参加するイベントには、学会の研究発表のようなスタイルもあれば、昨日や今日のような研修スタイルもある。自分にはそれがうまく区別できなくて、後で反省することもある。研究発表であれば、その目的や方法など長い間に培われてきた暗黙の了解事項があり、その文法に基づいて発表を聞いたり質問したりするので、安心感がある。研修スタイルはそこが異なっていて、対象者は主に学校の先生方なので、求める情報の質が違う。学会発表であれば、データがありグラフがあり考察があり、つまり主張する根拠であるエビデンスが伴っていて、発表も統計的な検定などの方法で検証している。しかし研修の場合は、そのようなデータは不必要とは言わないが馴染まないのである。

 そもそも学校の現場において、データを取得するとか統制群や実験群などのような群を設定すること自身が、教育の平等性の観点からすれば、不必要であるというより、してはいけない禁止条項である。したがって結論を導くには別の方法を用いなければならない。それは曖昧であることは承知しながらも、主観的なアンケートであったり子供たちの教室における仕草や発言などをデータとして扱うのである。それは仕方がないのではなく、その方がむしろ信頼性の高い根拠とも言える。自分も研究発表のセッションの司会をしたりシンポジウムで発言をしたりしたが、そのデータは当然ながら後者であり、写真や子供の発言や作品であり、それを質的に分析して述べた。

 昨日のシンポジウムでの発言を振り返って、自宅への帰りの電車の中でふと気づいたことがある。それはなんというか、ふと浮かび上がってきた。あの時自分が考えていたことは、基本的におかしいのではないかと思った。それはデータが不正確とか解釈が不鮮明だとか時間が長すぎたとか短すぎたなどの表面的な事ではなく、もっと本質的なことである。そのことをこのブログでは書けないが、一言で言えば自分は勘違いしていたのではないかという反省である。内心少しショックであったと同時に、それは自分にとって天啓のような優れた知見であった。表面的なことはいつでも誰でも改善できる。しかし本質的なことは、物事を捉える枠組み、つまり基本的なスキームなので、その違いはデータそのものをもう一度考え直す必要が生じるのである。昨日の帰りの電車の中で改めて考えて、次回からは枠組みを変えてみようと思った。それは自分の不勉強さであり無能力さや浅学のせいでもあるが、半面大切なことに気がついた。

 自分には悪い癖があって、わかっている内容の研究発表や話を聞いたりすると、ああそんなことかと、軽く受け流すことがある。そのことが多分、自分の思考に蓋をしているのではないか。文脈は離れるが新聞に、足跡の付かぬ足音秋深し(臼井正)の句があった。推測すれば、秋がやって来ているのだがそっと近づいてくるので、地面に足跡のつかない歩きのように、足音だけを耳にする。しかしそれは日常の足音にすぎないのだが、気がついてみれば秋ももう深くなって、見渡せば木々の葉っぱも紅葉している。そんなことに初めて気がついたと解釈すれば、自分の気づきとよく似ている。

 たぶん自分の発言や言動に対して、言葉に出しては言わないが、お前の考えはこういう点ですれ違っているよ、と視聴者は伝えているのかもしれない。本人はそのことに気づかないのだ。ただ少しずつ少しずつ自分の体の中に入ってきて、ある時水面に浮かんでくるように、はっと気づけば秋がやってきて秋真っ只中の季節になっているように、ようやくそのことに思考が向くのである。とすればそれは有難いことなのだ。ようやく自分が見えてきたのだ。自分のことは分かっているようで、ほとんど分かっていないような気がする。そう思って、今日のこれからのイベントに参加しよう。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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