今は火曜日の夕方、いつものように書斎の南向きの窓から外を眺める。いつものように、この時期はすでに真っ暗な風景が広がり、マンションの灯りが規則正しく輝いている。灯りを見ると、そこに人が住んでいることがわかって、外の寒さと家の中の暖かさがイメージされて、ほっとする。今日の午前中は、市内の学校訪問があって、そのコメントを学校にメールで送ると、午前中は終わる。午後はオンラインの会議などの仕事と、家庭の諸々の用事も家内から言われて処理している。歳をとるにつれて仕事一筋というわけには行かず、夫婦が協力しながら生活していかなければならない。それは自然の成り行きで、二人とも身体的および認知的な機能も弱ってくるからで、すべてが男女共同参画になる。
午前中の授業は、市内の中学校で、市の教育委員会に協力して特にGIGA端末の導入以来、その活用法などについてのコメントをしている。ただし1人1台の端末が整備されても、道具は道具である。それ以上でもそれ以下でもないので、誰が考えても優れた学習効果は、授業デザインや指導方法や振り返りに依存することは言うまでもない。今日の授業参観でも、GIGA端末の特性を活かしながら効果的に使っていた。そのコメントを書いて送ったとしても、それは道具の使い方にすぎない。つまりパソコンの使い方や車の運転の仕方などと大して変わらない。ということは、学びそのものに何が含まれているのかが重要である。自分の印象では、それは授業参観をしている自分の気づきに依存している。これまで経験的に文献的に実践的に蓄えられてきたいくつかの知識があって、授業を見ていると脳の中からふとそれらが浮かび上がってくる。それはちょうど釣り竿の紐が引っ張られるような感じで、引き上げると思いがけない知見に出会うことがある。
教育界にも流行がある。どの学校に行ってもいくつかのキャッチフレーズがあり、日本全体がその理念や考え方に沿うように、授業を工夫している。自分は小中学校の授業については素人であり、コメントの冒頭に必ず、「こうしたほうが授業がうまくいくという提案はできません」と断っている。「自分にはこう見えます、こう感じます」ということだけを、コメントとして書いている。そのコメントは、今流行のキャッチフレーズとは関係ないような気がしている。授業を見る人のメンタリティーや価値観などによって、気づきはかなり違うからである。そのような見方はどこから生まれるのだろうか。それはキャッチフレーズはなく、もっと深い部分によって制御されているのではないか。
今日の授業は、優れた指導力を持った先生で、見事に生徒たちを動かして単元内容を納得させていた。それはある面では、うまい教え方のできる先生とも言える。かつてはこのような名人芸のような先生を目指していたが、今の教育のキャッチフレーズとは少し方向が違う。多分長い指導経験が、たやすくは変えられないからであろう。授業参観をしている自分の目には、自分も多分中学校の教壇に立ったとすれば、同じような教え方をしたのではないだろうか。それは自分の郷愁と言っても良いかもしれない。つまり気づきは、認知レベルか無意識レベルなのかで違う。このブログでその良し悪しを論じるわけではないが、教育でも生活でも仕事でも二つのレベルがあるような気がする。老夫婦2人だけの生活でも、昔と変わらぬ無意識的な行動と、お互いが助け合うという認知的なまたは意識的な行動がある。
文脈は離れるが新聞に「介護課の液体糊(のり)に秋日かな」(黒沢正行)の句があった。市役所などの介護課の職員が、書類に添付したい別の紙に昔ながらの液体のりを使っている。たぶん人差し指で書類に貼り付けているのだろう。今ではテープのりが主流で、自分も書斎の机の中には液体のりはない。この役所の介護課では、相変わらず昔ながらの方式で事務仕事をしているようだ。それは経済的とか衛生的な理由ではなく、習慣なのであろう。その方が気楽なのである。教育でも生活でも仕事でも、昔ながらのやり方はある。それは是非を論じるべきことではなく、二つのレベルが共存して、ある時は意識して、ある時は無意識的に選択しているのではないだろうか。自分も年老いてきたので、「こうせねばならぬ」という思いは少しずつ少なくなって、「いいではないか」という思いが強くなっている。平凡だが、相手を認め助け合うことかもしれない。
