相談相手

今は、土曜日の朝の時刻だが、この後の事情があって、夕方でなく、今ブログを書く。最近は、なぜか資料作りが多く、その時間が必要なので、時間を工夫しなければならない。世の中で、働き盛りの人は、時間に追われ、時間を小刻みにして、仕事を割り振っているだろう。昔、同僚でよく言っていたが、人間には、食欲、性欲などの他に、仕事欲があるらしい、仕事のオファーが来るたびに、心のどこかが浮足立って、おお、とか言いながら、内面で喜んでいる。夕食時に、家内に、今日はこんなことがあった、まんざらでもないな、とか、まだまだ俺は大丈夫だ、とか、あの時に、こんな発言をしたので場が動いた、など、たわいもないことを言って、自己満足している。男は、一般的にだが、誰かに、自慢したい欲望を持っているらしく、それが仕事欲のはけ口で、仕事仲間に言うと、ひんしゅくを買うし、子供には言えないし、一番手っ取り早いのは、家内だろう。たぶん、聞くほうも嫌だろうが、まあ、他に言う人もいないから、聞いておこう程度しか思っていないだろう。思えば、仕事をする人、男も女も、なんとかやってみて、うまくいくと、子供のように喜び、失敗すると、愚痴をいったり、酒を飲んで憂さを晴らしたり、人はいつも大なり小なり、もがいているのかもしれない。その連続が、人生なのだろう。このブログでも、山本周五郎の小説で、苦しみても、なお働け、この世は修行である、という言葉を紹介した気がする。ずっと面白い、ずっと楽しい、ずっとワクワクすることは、あり得ない。ただ、面白くないこと、嫌なこと、逃げたいこと、でも、気持ちの持ちようで、なんとかなる、平常心に戻れる、自分を認められる、と思う。この世のことは、修行のような苦しみなのか、自分もまんざらでもない、と思うかで、天と地ほどの差がある。どんな人間でも、総理大臣でも、大企業の社長でも、官僚のトップでも、有名タレントでも、家に帰れば、愚痴を言ったり、自慢話をしたりして、心を平静に保っているのだろう。そうでないと、前に進んでいこうという勇気が出てこないのだ。それは、人の知恵である。それを、自己コントロールできないだろうか。年齢を重ねると、たいていのことは、それほど大きなことではない、まさか命が取られることではない、食事に困ることはないではないか、住む家がないわけではないか、などと考えるようになる。人間関係でも、まあ、目くじらを立てるほどでもない、とか、一度会って、話せばわかることではないか、相手も立場があるし、などと考えるようになる。それは前向きというより、心のクッションなのである。ベッドや布団などの柔らかい敷物の上で考えるイメージなのだ。そうすると、あまり大したことではないと思えてきて、それなら、こうしてみようと、意欲が湧いてくる。新聞に、妹の手作りブラウス藍染を今年も着るんだ夏がきたもの(岩本房子)の句があった。文脈はないが、嬉しそうな気持がにじみ出ていて、はしゃいでいる様子が目に浮かぶ。たぶん、年配者だろう、妹さんは、健在なのかそうではないのか、そして自分で自分を励ましている、今年の夏も良いことがありそうな、そんな気がして、この世の中を生きていくのか。人は、最後は、自分が相談相手になるのだろうか。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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