お墓参り

今は、土曜日の夕方、もう4月も半ばで、土日はスポーツジムに行く曜日なので、先ほど帰宅した。あいにくの雨で、今日は朝から1日中降っているが、あいにくかどうか、植物にとっては、久し振りの恵みの雨で、今朝、家内が、小さな庭だが芝生がきれいな緑で、何か良いことがありそうな、爽やかな気持ちになった、と言ったから、なるほど、雨降りも良いことでもあるようだ。自分も、今日中にやらなければならない宿題のような審査の仕事があって、たぶん明日までかかるだろうと思っていたら、午前中、ちょうど12時に終わったから、嬉しくなって、こんなに嬉しいこともあるのか、と年甲斐もなく、はしゃいだから、家内が、怪訝な顔をした。嬉しいことは、年齢に関係ないのだ、そして、事の大小にも関係なく、やり終えた充実感、うまくいった嬉しさなど、それは、逆上がりができた子供の喜びと変わらない。昼食後に、月に1度のお墓参りに行った。習慣なので、特別な意味はないが、月に1度くらい、両親に報告やらお願いなどをすると、気が落ち着くし、感謝する気持ちが湧いてくる。自分のことは、良いことしか報告しない、子や孫のことは、お願いをしているが、どの家庭でも、似たようなものだろう。良いことを聞けば、両親も喜ぶだろうと思って、些細ではあるが、楽しい出来事を、墓前で伝えている。届くかどうか分からないが、子や孫のことでは、天まで届けよ、と思い、自分たちのことは、安心してほしい、とつぶやいている。あいにくの雨だったので、傘を差しながら、お線香を焚いたが、雨で燃えカスが白くなって、すぐに汚れたが、許してもらえるだろう。お墓の前で手を合わせると、眼前に両親がいるような気がする、内心でつぶやくとは、両親がそこにいると思うか、いなくてもつながっていることを前提としなければ、真剣にお願いするという行為が論理的に成り立たない。新聞に、ふらここや亡き妹とすれ違ふ(藤嶋務)の句があった。ふらここ、とはネットで調べると、ブランコのことで、春の季語らしい。作者は、ブランコに乗っていたら、隣りのブランコに亡くなった妹が乗っていて、すれ違った、という体験である。ふらここ、という季語を知っている人だから、相当の俳句通で、それなりの年齢に達している人で、実体験というよりも、そんな気がしたのだ。ブランコに乗れば、高い位置に来た時は、遠くの方まで見える、これまで見えない景色が眼前に迫ってくる、これまで見えなかった妹が見えるような気がした、のかもしれない。墓前でつぶやいていることは、そこに亡くなった両親がいると思って、というか、そこにいなくても、そのような気持ちで話していることなので、この作者と同じではないだろうか。その妹さんは、明るく楽しそうな表情だったか、または、その逆だったか、詮索をすることは失礼にあたるので止めるが、他人事であっても、幸せなすれ違いであってほしい。自分は、墓前では、両親を喜ばしてやりたい、と思っているので、心なしか、両親は笑っているような表情をしている。何故か、眼鏡が曇ってきた。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。