変化

今は、もう水曜日の夕暮れ、夕暮れは構わないが、水曜日が遅れたことを表している。本来は火曜日だったが、この世の中はままならず、昨日はどうしても時間が取れなかった。生きている限り、それは仕方ない、と考えれば、予定を立てても、予定通りには事は進まない、それで、トラブルが起きたり、意に染まないこともあるが、すべて順調にいくはずがない、と思えば、大したことではないので、時の流れに身を任せ、という心境に辿りつく。半面、予定しなかったが、意外にうまくいった、とか、自分で思っていた嫌な事は起きなかった、思い違いだった、なども起きてくるから、世の中はうまくできている。そうして、時が過ぎて、歳を取っていくのだ。もう、今日は3月1日、2月も過ぎ去っていったのか、なんと早い時間なのだ、と驚くしかない。思い出せば、今日の午前中は原稿を書いていた、出版の分担執筆だが、目次ができているから、意外に筆の流れは速い、お昼はオンライン会議で、可もなく不可もなく、予想通りの展開で、まあ、これを平凡と言うなら、その通りで、結構なことである。その後、メールを読んでいると、いろいろ物騒な出来事が起きている。ブログでは紹介できないが、これからどう展開するのか、しかし、あまり差し障りのない程度に、関わっていくか、などと考えている。そして、数日前に出した重要な返信がまだ来ていない、どうしているのだ、こんな時、人は良くない結果を予測するようで、多少不安が頭をよぎるが、催促はできない、そのまま、なすがままに、待つしかない。LINEを見ると、良かった、孫に朗報があった、家内が喜ぶだろう、などと、嬉しい知らせもある。考えてみれば、喜んだり、悲しんだり、ほったらかしにしたり、逃げたり、憤慨したり、人とは、絶えず感情に翻弄されて生きているようだ。感情の起伏も変化だから、そこに埋没すると、時間を忘れるのだろう、だから、あっと言う間に時が過ぎて、いつの間にか3月になって、もうすぐ春がやってくる、満開の桜に酔いしれる日は、もうすぐそこなのか、と思う。変化とは、時を忘れさせる特効薬らしい。変化がない人生は、どこか侘しさがある。新聞に、「このまんま年を取るのか」「ほんとにね」会話続かずあとは寝るだけ(大森由紀子)の句があった。気持ちは分かる、所在ない雰囲気が漂っていて、時が静かに、そして長く感じられるのかもしれない。それが平凡でいいような、物足りない人生のような、しかし、そのような人は多いのではないだろうか。自分はどうだろうか、振り返ってみる、少し違うようで、まだ話したいことも、やりたいことも、いっぱいある。それが、うまくいって有頂天になる時も、失敗して途方に暮れる時も、あるだろう、どうも、自分には、死ぬ間際まで、そんな変化がつきまとっているような気がする。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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