今は、月曜日の夕方、変則的な曜日なのは、明日も明後日も夕方に時間が取れないので、今書いているのだが、時計の針のように、きちんと守らなくてもよいだろう、それが人の世なので、柔軟に考えることが、当たり前だが、大切だ。が、その当たり前のことが、なかなかできないことも、人のなせることである。特に自分の癖なのか、朝は5時か5時15分に起きて、という習慣も、昨日が遅かったから、番組録画していた内容が面白かったから、などの理由の如何に関わらず、この時間に起きないと、背筋に何かでせっつかれているような気がする。たぶん、一種の病気なのだろう、理系の大学にいた時は、研究室が夜中でも灯りが点いていないと、どこか落ち着かなかった、それは自分だけでなく、周囲がその雰囲気だったので、休むことは罪悪だ、という観念があった。研究の世界は、それでいいかもしれないが、世間とは大幅にずれている、ということは、知ってはいても、心と身体が言うことを聞かない。この頃、ようやく、身体、つまり健康は、仕事以上に大切なことが、分かってきて、行動が伴ってきた。右も左も、辛いも甘いも、悪も善も、在って当然、それが世の中なのだが、ずっと同じ姿勢、同じ方針、同じ考えで通すほうが、心地よいのだろう。自分は、家内にもよく言うが、研究者は職人だと思っていて、技を深める仕事である。職人の究極の技は、名人芸であり、名人芸だから、物真似ができない、その人だけの世界なのだ、が、それは、他人が入れないので、どうしても、融通の利かない人間になる確率が高い、ことになる。それは、善でも悪でもなく、そのような世界なのだ。昨日は、知人から、読めば頭の芯が痛くなるような、難しく、そして極めてオリジナルな、英語の論文を、送ってこられた。オーバに言えば、生涯をかけて、辿り着いた研究知見なので、メールの文面には、我が子が生まれたような喜びと感動で、満ちていた。それは、幸せなことで、その道を究める研究者や職人で言えば、冥利に尽きる、ということになろう。新聞に、建具屋の耳に鉛筆秋の暮れ(新井たか志)の句があった。実直そうな職人さんの姿が目に浮かぶ、昔からずっと、耳に鉛筆を挟んで、仕事をしているのだろう、良い出来ばえなら、どこか、嬉しさがあって、この仕事をして良かった、と内心思っているだろう。秋の静かさ、日が暮れていく夕方、まだ、仕事に愛着が残って、その仕事場から離れがたい気持ちと、そろそろ道具を仕舞おうか、という気持ちがあって、それは、建具屋さんでも、書斎で仕事をしている自分でも、同じだろう。今日は、午前は、書斎で論文の準備のような仕事をし、午後は、来客と、所沢駅構内の寿司屋さんで、昼食を兼ねた打ち合わせをした。ちょっと洒落た雰囲気で、都内に行くのが面倒で、所沢に来ていただいたが、楽しい会になった。打ち合わせも、このような形式、柔軟に対応するのは、開放的な気持ちになる。つまり、職人であるが、人とのコミュニケーションは、営業マンになるという柔軟さが、人の世では、良いかもしれなない。