歳を感じる頃

今は、土曜日の夕方、スポーツジムを終えて、帰宅して一息ついて、西空を見ている、と書くと、いつも同じようなブログになる。が、この静かな時間が好きで、今日は特に昼間は夏のように暑く、今はちょうど気温が下がって、夕涼みで家の外にいるような感じである。それは、自分が子供だった昔に呼び戻す。何もかもが、薄ぼんやりとして、セピア色に染まった白黒写真のような光景が目に浮かぶ。こんなことを書くのも、自分が歳をとったからなのか、ウクライナの悲惨さや、コロナ禍とか、物騒な出来事が最近は多く、どこか平穏な昔とは真逆の世界に振り回されて、それだけノスタルジアを感じて昔を恋しがっているのかもしれない。そう言えば、最近は、歳を感じることも多く、物忘れや人の名前忘れは当然ながら、ここ1週間くらい、腰が痛くて、歩きにくいというか走りにくい、そして、どうも気力が衰え始めているような気がする。脳が弱れば認知症、心がおかしくなればうつ病、身体が衰えば病気だから、医者に行かなければならないが、それほどでもなく、年齢と共に、すべての機能が下降してきているのは、自然現象だろう。ただ、自然だと認めることが、現実にはなかなか難しく、まだ大丈夫と思うのだが、現実と自分の意識のギャップはあるのかもしれない。歳のことも考えたほうがいいよ、と、時々、家内に指摘されることもある。自分が所属する団体のスタッフに、自分が同じことを繰り返すようになったら、役職を務めるのはまずいから、すぐに教えてほしい、と言ってある。ただ、まだそのような兆候もなく、何の変化もないように思うのだが、どうなのだろう。が、最近、自分の専門の知識や思考力が衰えているような気がして、自分が思っているような自分ではなく、昭和の古い時代の研究者か教員で、最新の知識を知らない、勉強不足の、とても役に立たない、一介の老人なのか、と落ち込むことがあった。自分のことは誰でもわからない、いったい自分は何者か、錆びついた知識しか持っていない役立たずか、と卑下することもあった。が、それでもいいのだ、努力だけはしよう、勝たなくても良い、場合によって、いぶし銀のような存在になることもある、世の中は、そのような人も必要なのだ、と思ったら、少し元気が出てきた、そう言えば、腰の痛みも、プールで泳いだせいか、気のせいか、あまり感じなくなっている。昨日の夕方、整骨院で腰を揉んでもらったら、筋肉痛だよ、と言われたから、時間が経てば治るだろう。新聞に、昭和の日体温計を振りし頃(薄井逸走)の句があった、今はデジタル体温計だからか、振らなくてもいいが、昔の道具も、どこか愛嬌があって、いぶし銀とは言わないが、しぶい味を醸し出している。自分も、そんな風になりたい。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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