プレイヤーとマネージャ

昨日の夕方にオンライン会議があった。小学校の優れた実践報告で、圧倒された。この圧倒という言葉が示す意味は、自分の弱さを披歴してることと同義語なのである。このブログで何度も書いているが、小中学校の優れた実践を目の前にすると、ボクシングで倒されたように、文字通り圧倒されて、起き上がれなくなる。少しオーバだが、そんな印象で、自分が情けなくなる。たぶん、他人が聞くと、何を寝言のようなことを、とか、謙遜しているのか、と言われそうだが、そうではない。木曜日に、大人気の俳句番組がある。夏井先生が、見事に、そして辛辣に手を入れる、その切れ味は、時に絶賛し、時に破門だと言い放ち、時に滅多切りする、その小気味よさが、視聴者を魅了する。その爽快感とでもいうか、それは、夏井先生自身が優れた俳人であり、かつ指導者だからである。つまり、実践者と同時に指導者であり、一致するのである。スポーツでも優れた選手、野球でも相撲でもサッカーでも、卓越した選手、プレイヤーから選ばれて、コーチや監督、マネージャになる、のが普通である。しかし、優れた選手、必ずしも優れた監督にならず、の言葉通り、等しい関係ではない。プレイヤーの奥に潜む技、知識、方法などを見抜き、掘り出し、的確に提示して、相手に伝えなければならない。その技量は、プレイヤーとしての技量とは違う、という指摘が、先の言葉である。つまり、マネージャは、自分や相手の作品、スポーツなら動き、を客観視して、上から見て、メタレベルで認知して、言葉や動きなどで見える化、可視化する技量が問われるのである。時に、こうすればよいとモデルを見せる。俳句は見事にそれをやって見せ、水彩画なども、見事すぎるくらいで、アッと感嘆の声を上げる時もある。プレイヤーとマネージャが、きれいにマッチングした人が、その道の専門家と言ってもよい。自分は、どうか、と振り返ると、大学院生を研究指導するなら、少し自信はあるが、小学校は、刃が立たない、経験がないからである。小学校の先生に、そんなことを言うなら、お前が教壇に立ってやってみろ、と言われれば、すいません、と頭を下げるしかないのである。だから、圧倒される。恥ずかしながら、いつも抱いている奥深い劣等感である。自分の修業は、まだまだ続く。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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