サウナ室での会話

昨日は1月31日で、平凡ながら時の経つのは早いと実感するが、日曜日なのでオンライン会議もなく、平穏な1日だった。コロナ禍の中では、平穏という言葉が、妙に新鮮に、そして心地よい響きを持っている。土日は、スポーツジムに行くが、ジムの1階の筋トレと2階のプールで体を動かす。筋トレやランニングマシーンで汗をかき、プールで汗を流しているが、2階から見える外の光景、冬のよく晴れた天気が、プールの水に身体を浸していると、なんとも贅沢な気持ちにさせる。プールの他に、屋外にあるジャグジーや、サウナもあるから、まるでリゾートに来た気分になる。自分は、プールで泳ぎ、ジャグジーでお湯に浸かり、霧状のサウナ室で座って、着替え室に戻るパターンである。サウナ室で、聞くこともなく、会話が聞こえてきた。これから、どうする?、家に帰って、夕飯の支度をするよ、そうか、奥さんはどうだ?うん、脳梗塞で体が不自由で、ほぼ寝たきりでね、でも生きているだけで有難いよ、君の方はどうだね、元気そうだね、という話声なのだが、密なサウナ室で、飛沫が飛ぶのが怖い、ジム内では会話は禁止となっているではないか、と思って、サウナ室をすぐに出た。ふと思い出した。自分の両親も、脳梗塞で倒れ、手術が成功して身体や言語障害も無かったが、その後認知症になった。因果関係で考えれば、コロナに感染して重病になるより、脳梗塞で倒れる可能性の確率が高い。脳が壊れれば、すべて終わりのような気がするが、ましてその後に認知症になれば、介護される境遇になる。誰でも、同じ思いだろう、子供たちに迷惑をかけたくない、翌日の朝寝たまま逝ってしまった、という姿が理想である。自分の両親は、典型的な介護のパターンだったが、嫌な思い出は1つもない、大変だと思ったこともなく、ただ懐かしいだけで、たぶん家内も同じだと思う。死の到来は、人知の及ぶところではなく、天に任せるしかないから、今は悔いのない時を過ごすしかない。しかし、それを思えば、今の境遇はきわめて贅沢である。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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