雨のち晴れ

 今は火曜日の夕方、2階の書斎でいつものように南向きの窓から、マンションや空を眺めている。近所で引っ越しをする家があって、いろいろなものをこの数日間運んでいた。3月の終わりは移動の時期であり、卒業の時期でもある。4月の入学式まで春休みなので、この間は子供や生徒たちはそれぞれ自由な時間を過ごせる。春休みの宿題はあまりないせいか、にこやかな顔で春を楽しんでいる。お昼に歩いて数分のスーパーマーケットに買い物に行ったら、小川のほとりの桜の木は満開だった。きれいに晴れ渡った空とは言い難いが、それでも白い雲と雲の間から見える青空に、桜の木がよく似合っている。自分も他の買い物客と一緒に少し眺めていた。

 午後はオンラインの会議が先ほど終わり、1階の居間で家内とお茶を飲んだり果物を食べたら、すぐに夕方になった。年寄り夫婦の会話は世間と同じで、大した話はない。むしろ困った話の方が多い。ブログで書くのは憚られるが、自分には少し困ったことが起きた。昨日は1日中雨でずっと書斎にこもっていた。そして今日の午前中もそれに関わった。どうもパソコンに、ウイルスか、なりすましに襲われたようである。明確ではないのだが、そうとしか思えない。これは自分の恥をさらすことである。数日前に東北のある方から電話をいただいた。その人は「私からメールをいただいたのだが、心当たりがあるでしょうか」という丁寧な電話だった。「いいえメールを送ったことはありません。私の名前の@以下の文字を見れば、私ではないことが分かります」と答えた。

 パソコンのアプリを操作していたら、どこかおかしい。いつもと表示が違う。詳細はブログでは書けないが、明らかに何かが侵入した気配がある。パソコンでは正体が見えないようにはしているが、何かが入ってくれば、自宅に空き巣に入られるのと同じで、何かの痕跡が残る。そして運が悪いことに、これもブログで書けないが、金融関係のアプリをインストールしたり、設定を変えたり調べなければならないことが山積していた。それは研究でも調査や分析でもなく、自分には必須の重要な終活の仕事であった。それに夢中になって、いろいろな調べ事をしていたが、まるでその隙間を縫うように、どうもよからぬ人が自分のパソコンに侵入したようだった。

 これはいけない、すぐに設定を変えてパスワードを変更した。セキュリティを高めるために二段階認証も取り入れた。自分が使っている、ほぼ全てのパスワードを変えたのだが、変えるにも、ある程度のルールをもっていないと記憶できない。それは1種の関数のようなものである。そしてすべて確かめてなんとか気が落ち着いた。ただどうして侵入されたのか、それが知りたくていろいろ調べた。このような時、生成AIは確かに頼りになる知の職人である。その対話の中でふと思った。質問する自分が、相手がわかるようにプロンプトを書かないと、間違った答えが返ってくる。つまりそれは自分と生成AIとの真摯な対話であり、それは研究打ち合わせと同じではないかと思った。

 相手が機械だから、道具だから、という感覚ではうまくいかないような気がする。人間も誠心誠意、対応するほうが良いのだと思う。自分にとってパソコンの不具合は、何にも代え難いダメージなのだ。それは学生を研究指導する能力がないことを証明したようなものであり、誠に恥ずかしいことなのだ。昨日は一日中雨降りだったことは、文字通り天の恵だった。そして今日はきれいに晴れて、自分の頭も心も雨上がりであった。自分は本当に無知だと思った。昨日は自己卑下もしたが、しかし今は違う、自分は生きた勉強をさせてもらったのだ。雨のち晴れなのだ。

 文脈は離れるが新聞に、「病気の娘(こ)に世話する我は生かされる先に逝かせてたまるものかと」(本木光子)の句があった。母親の必死の思いが伝わってくる。その通りだ。娘にこれから先まだまだ花も実もある経験をさせたい、自分より先に娘を決して逝かせないと、天をも恐れず向かっていくのだ。ふと気づいてみると、そのおかげで自分は生き抜いてこれたではないか、この母親の思いはなんと素晴らしいのだろう。自分ごときの人間でも、失敗をしたから勉強ができたのだ。そう思えば、なんのこれしき、この母親のように乗り越える対象があるから、生きることができる。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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