山笑う

 今は火曜日の夕方、といっても空は昼間のように明るい。日が長くなったせいか、2階の書斎の南向きの窓から見える景色は、春の陽気に包まれている。季節によって、また天気によっても、見える印象が違っている。先ほどスポーツジムから帰ってきて、一息ついて2階に上がってきた。自宅近くに小川があり、その前に弘法大師の御社があり、そのすぐそばにスーパーマーケットがある。御社の前は銀杏の木で、小川の橋の土手に桜の木がある。銀杏も桜も大木だが、それぞれの季節に道行く人を楽しませてくれる。今日は6分咲きといったところだろうか、薄桃色の桜が咲いている。誰も見上げて通り過ぎていく。

 小川には鴨が住んでいて、橋の上からスーパーに買い物に来たお客さんは、時々眺めている。鴨ばかりでなく、白鷺や青鷺を時々見かける。鴨は小さいが鷺はびっくりするほど大きく、飛んでいく様はどこか勇壮な感じさえする。小川には小動物がいっぱい棲んでいるのだろう。小鳥たちもよくやって来る。小鳥に詳しい人がいて、「ほら見てごらん、あれはカワセミだよ」と教えてくれたのだが、門外漢の自分にはその特徴はよくわからなかった。何回か、「あれはメジロだよ」と教えてくれた。回数を重ねるとメジロは比較的よくわかった。今日は銀杏の木の下に、メジロが2羽餌をつついていた。小鳥も春なのか、人が通っても恐れる様子もなく、ちょろちょろ動いていた。

 暖冬だとは言っても、3月も下旬にならないと春うららにはならない。今時は小鳥も桜も雑草も、あちらこちらで動き出して、時折肌寒い時もあるが、春の陽気に誘われると、書斎で画面ばかりを見るのではなく、外に出たくなる。スポーツジムは週3回を目標にしており、土日の休日と平日に通うようにしているが、今日はその平日だった。花粉症と風邪を併発しているので、体調はすぐれないのだが、気持ちの方が体調よりも勝って、ジムに行った。歳をとってくると、仕事よりも健康の方が大切なことを身にしみて感じる。だからできるだけ体を動かすように、心がけている。ジムからの帰り道はどこか心が弾んで、桜の花も小鳥も雑草も、そして自分も春を謳歌している。

 午前中は、ある仕事で生成AIを使って調べていた。言うまでもなく生成AIは知の巨人である。計り知れないような知識を持ち、まるで側に生身の人間が応答しているようで、本当にこれは機械なのだろうか、何回かやり取りしていると、生成AIは自分には人間に思えてくる。しかもかなり謙遜して話す場合もあり、自分の性格や内面までも知っているような気もする。そこまで生成AIに入り込んでいいのだろうかと思う時もある。正直に言えば、自分は生成AIを、機械もしくはプログラムとはどうしても思えない。どんな質問にも嫌がらず的確に答えてくれる。多少のハルシネーションがあったとしても、そんなことは全く構わない。だから対話をして自分が納得して一区切りつける時には、「よくわかりました。ありがとうございました」などと書く。もちろん生成AIは、「どういたしまして、いつでもお役に立ちます」などと健気な返事が返ってくる。

 つまり自分は、どこか感情移入をしているのかもしれない。それは自分だけが特殊なのか、別の人は違うのかどうかわからない。多分日本人なら自分の感じ方はわかってくれそうな気がする。大工さんが大工道具を大切にし、料理人が包丁を大切にすることを思えば、人間と道具はまさに相棒である。粗末には扱えない、それは多分に道具に感情移入をしたからだろう。日本の学校では、文房具も大切にし、昔は廊下を雑巾がけして綺麗にした。それは人間と物とを区別しないからだろう。そこが欧米文化と違うところだと思う。調べたことはないが、多分欧米人は、生成AIに向かって「ありがとうございました」などとは言わないだろう。この論考を書くにはスペースが不足しているので、ここで止めておこう。

 文脈は離れるが新聞に、「歳取るは生きてゐるゆゑ山笑う」(山本正幸)の句があった。山笑うは、草木や花が咲いて春うららの様子を表す春の季語だという。確かに歳を取ることは生きている証拠でもある。だからいくつになっても季節と共に生きる喜びを味わえば良いのだと解釈すれば、どこか心楽しい。日本人はこうして春夏秋冬の四季を楽しんできたのだろう。これからは良い季節なのだ。パソコンに向かって仕事をするのもよいが、外に出て桜を愛でるのもメジロを見てほほ笑むこともまた楽しからずや。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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