思いと現実

 今は月曜日の夕方、書斎の窓から空を眺めて一日を振り返っている。普段は火曜日の夕方にブログを書くのだが、明日の夕方はオンラインの理事会が入っていて、明後日の夕方もオンラインのイベントで自分がホスト役なので当然ながら時間がない。だから今しか書けない。窓から見る空は、春の陽気で青空に薄い雲が混じっている。春ってこんな日かな、自分は今日何をしたのかな、などとぼんやりと空を眺めている。それはぼんやりと自分を見つめる束の間の安らぎのひとときである。

 とは言っても、先ほど市内の学校から帰って来たばかりである。今日は校内研修会があり、そこで話をして、近い距離なので歩いて帰ってきた。西日が全身を包み、今日も一日穏やかに過ぎたかという気持ちと、そうでもなかったという気持ちが、複雑に混じり合っていた。ブログは公開日記なので、事実にもとづく出来事と、それが公開されるという個人情報を含むことの矛盾した内容なので、複雑なのだ。誰でもうまくいかなかったことは、公開したくないし書きたくもないし振り返りたくもない。しかし上手くいくこともいかないことも、嬉しいことも面白くないことも、喜ぶことも悲しむことも、すべて赤裸々につづることが自分の流儀である。

 お昼時にニュースを見ていたら、アメリカとイランの戦争で、日本も自衛隊を派遣するかどうかでもめていた。あの高支持率を維持している総理でさえ、厳しい現実を見ながら、背中で国民の突き刺すような目線を感じながら、アメリカ大統領と面談しなければならない。現実に向かう厳しさは、庶民には想像もできない。働いて働いてとは言いつつも、成果が見えない交渉事は、誰でも逃げたくなるのは人情である。一国の総理ともなれば、そのことはおくびにも出さない。政治家だけでなく企業も同じで、某有名自動車メーカーが、信じられないような大赤字を計上した、とニュースにあった。経営者の苦渋が伝わってくる。クラスが荒れて思い通りにならない担任は、学校はブラック企業だと思っているだろう。いつまでも泣き止まない幼児をあやしている母親は、可愛さと憎らしさが共存している。この世の中の誰もが、自分の思いと現実のギャップにもがきながら生きている。

 今日の学校は、本年度10回授業参観をして、今日は校内研修会でその総括の話をした。自分の仕事上、GIGA端末の活用にも触れる。生徒に道具を渡すことは、主権が教師から生徒に移ることなのだ、それが今日の学習観であり、知識を伝えることから生徒へ寄り添うことへの転換である、と話した。話しながらふと気づいた。自分は先生方を前に知識を伝えているだけではないのか、先生方に寄り添っているのか、という声が聞こえてきた。講演しながら自分が情けなくなった。言っていることと、していることが逆ではないか、お前は先生方に本当に寄り添っているのか、もしそうであれば、現状の課題と厳しさを取り上げて、そこに助け舟のような知恵が必要なのではないか、それがなくて、研究という美名に隠れた情報を伝えただけではないか、それは知識であっても、生きる知恵ではないと思った。

 先に述べた政治家や企業家や現場に生きている人々に比べれば、自分はなんとひ弱なそして役に立たない人間なんだろうかと思った。だから帰り道の西日の暖かさが自分を慰めてくれているような気がした。今日はなんと暖かいのだろうと思うと、こんな自分でも、夕日が受け入れてくれるような気がして、また頑張ろうかと思った。実は2度目なのだが、「<せんせいの今朝の短歌をよみました>教え子の文われをはげます」(松山光)の句を引く。まるで自分のことを詠んでいるような気がしたからだ。人は時に落ち込み、何かに励まされ、また頑張り、という繰り返しの中で生きている。たわいもない小さな出来事なのだが、誰でもこうして毎日を過ごしている。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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