病院で診察

 今は金曜日の夕方、南の窓から見る空はまだ明るく、青空にぽっかりと白い雲が浮かんでいる。明日土曜日にブログを書いても良いのだが、手帳に書き込んでいるので、今書いている。手帳は行動予定なのだが、学校や企業の勤め人とは違って、フリーランスの立場上、日程が詰まっている日もあれば真っ白な日もあり、フーテンの寅さんのような気ままといえば気ままだが、どこか寂しさもある。自分の几帳面さなのか、融通が利かない性格なのか、手帳に書いたことはその通り実行したくなる。

 午前中は病院で診察と書いてある。午後はオンライン打ち合わせとジョギング、そしてブログと記載しているので、その通り実行している。病院で診察には少し説明が要る。定期的に薬をもらったり血液検査をしたり、かかりつけの主治医に診てもらうのは、日常生活の一部だが、病院に行くのは事情が違う。主治医が長年の血液検査を見て、その経年変化から大学病院に診てもらった方が良いという診断をくだされ、所沢市内にある大学病院に今朝行ったのだ。日頃通っているクリニックなら平常心だが、大学病院となると少し胸騒ぎがする。何しろ規模が違う。今日は朝から午前中いっぱい病院で診察をしてもらった。

 なぜこんなに人が多いのだろう、なぜこんなに待つのだろう、なぜこんなにという疑問だらけであった。何も疑問を持つことはない、世間では大勢の人が病院に通っているのだ。このブログでも書いたが、手術をした経験もなく、検査入院はあるが正式な入院をした経験もない。だからどこか、心に隙があったのかもしれない。長い時間待たされて医師の前に出た時、医師の隣に医学生が立っていて、臨床の勉強をしているようだ。医師は表情はやさしくありがたいと思うが、その言葉にはどこか反論できないような重みがある。診察を受けながら何故だろうかと考えた。それは科学だからだろうと思った。医師の診断や検査や手術など、すべて科学的知見に基づいて実施される。

 科学とは情に左右されないのである。医師と対話しながら、次々と検査日程が決まっていった。手術なのか入院なのか、自分には無経験のストーリーが用意されて、そこに向かって、いくつかの検査が計画されている。それは自分の気ままなフリーランスの手帳ではなく、科学的知見に基づいた計画である。これだけ大勢の患者が押し寄せているのだ、個人的な用事などは脇に置いて、その計画に沿って検査を受けなければならない。病気とはなんと傲慢なのだろうか、などと意味のないことを考えた。自分は医師に質問した。もし手術となればどのような手術で何日ぐらい入院するのか、そして副作用などの可能性や手術の成功率などについても、聞いた。最後に医師が、もし手術するならば受けますかという質問に、自分は、いや受けません、と答えた。

 論理的で科学的でそして専門的な判断による計画に対して、素人が心のどこかで反論したくなったのだ。市井に生きる凡人は、その論理の直線上では考えないのだ。そして現実になった時は、多分どうしようかと迷うだろう。論理の一直線をまっすぐに進むような考えはないのだ。第一検査の結果も出ていないではないか。いくつかの検査結果という科学的知見と、自分の仕事や家族や生き方などを土台とする凡人の判断とのせめぎ合いである。とは言っても、癌でもなく大手術でもないので心配することはないのだ。それでも凡人の発想は、日常生活に根ざして考えるので専門家とは違う。医学だけでなく政治の世界などは、なぜ戦争を起こすのか、専門家の考えることは、市井の人にとっては全く理解不可能なのである。

 文脈は遠く離れるが新聞に、「日脚(ひあし)伸び太陽近くなりにけり」(福家市子)の句があった。これは科学の俳句ではない。暖かくなって冬も少しずつ遠ざかり、だんだん日が延びてきた、それは太陽が近くなったような気がするのが、庶民の感覚である。その作者の気持ちが読者に伝わってきて、もうじき春がやってくるのかと思うと、素直に嬉しく、そしてまた頑張っていこうという気持ちが湧いてくる。それは科学の感覚ではなく、日常生活の中で右往左往しながら生きている庶民の感覚である。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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