価値づける

 今は火曜日の夕方、いつもの通り書斎の窓から見る空は、薄いグレー色で寒々しい雰囲気が漂っている。そしてブログを書く時間になったのだが、こんな日もあるのかと、嘆息している。簡単に言えば、やることなすことすべて裏目に出て、うまくいかないのである。我ながら情けなくなった。自分の恥のようなものだから、あまり書きたくはないが、パソコンがなぜか調子が悪くなった。スマホのアプリもうまく機能しなくなった。このため大切な用事を明日に延期することになった。

 週3回スポーツジムに行く予定なのだが、土日が他の用事でよく潰れるので、今日予定していたら、ジムがメンテナンス休暇に入って木曜日まで休みであった。その代わり時々行っているゴルフコースに行こうと思ったら、今日は定休日だった。もう何も運動することができないと、気持ちまで沈む。パソコンもスマホも、なぜこんなに自分の言うことを聞けないのかと、まるで気の利かない部下のような感じで腹立たしくなった。機械は感情がないので、論理にしたがって無表情にできないと表示するのだ。

 こんな時、人は落ち込む。多分誰でも同じだろう。ただそれは年齢によって違う。歳をとってくると、いろいろな機能が衰えるので、自分の力が弱っていることを実感してくる。やはり俺も歳なのか、こんなこともできないのかと、だんだん矛先が自分に向かってくる。すると自己肯定感が下がって、自分は役に立たない人間になったのかと思うようになる。スポーツジムは相手の都合なので仕方がないが、パソコンやスマホがうまくいかない時は、設定などの問題が多いので、自分の能力が落ちていると自覚して、惨めな気持ちになるのである。たかが機械ではないかと思うのだが、自信がなくなってくるのだ。

 新聞に「転(こ)けたるを幾度も詫びつつ年越しぬギプスのなかで母は痩せゆく」(高橋裕樹)の句があった。そんなに詫びることはないのだ、お母さんに何も責任はない、これまで頑張ってきたではないか、それで充分ではないか、そんなことを言われると、息子さんは胸が熱くなるだろう。歳をとってくると、衰えていく自分に自信がなくなり、周りの人に申し訳ないと思うようになる。自分の父親も、ほとんど役に立たず済まない、と口癖のように言っていたことを思い出す。そんなことはないよ、家族のために一生懸命働いてくれて、自慢の父親だと言いたかったが、気恥ずかしくて言ったことはなかった。自分がそんな歳になって父親の気持ちがよく分かる。

 昨日は市内の小学校の校内研修会があって、指導者として参加した。この学校は、非認知能力を数年間かけて研究する指定校である。昨日は全教員で授業を参観し、研究協議をした。グループ活動を通して、子供が自分の考えに対して他からコメントをもらい、価値づけてもらうことも目標の一つとして設定された。なるほどその通りなのだ。自分の考えも、別の角度から見て面白いではないかと他の子供が思えば、価値が生まれる。自分の価値は自分ではわからない。他人によって価値づけられるのである。ギプスをして生きようとしている母親も、息子から見れば手を合わせたくなるような高い価値のある生き方であり、自分の父親も本人が思うような存在では決してないのだ。

 

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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