今は火曜日の夕方、いつものように書斎の窓から外を見ている。今日は少し寒々とした冬空で、今にも小雪が降りそうな天気である。いや、ちょうど今、小雨が降っているのが見えた。今日の午前中は学校訪問をし、午後は外に出かける用事があって、今ようやく時間が取れた。ブログを書くのも仕事の一つと思っているので、なんとか間に合わせようと自分なりに工夫している。
地元でも、雪が降ったり、その中を選挙に行ったり、選挙結果に驚いたり、学校訪問をしたり、原稿を書いたり、青色申告の準備をしたり、この世の出来事はいろいろである。老夫婦二人の生活であっても、それなりの山と谷があって、まあぼちぼち行こうかという気持ちと、それでも何とか頑張ろうという気持ちの二つがせめぎ合っている。ぼちぼち行っては、世間を渡れないこともある。気張ってもまあこのぐらいだったかということもある。生きていくことは、その両方のバランスの上に成り立っている。
先週は学校評議員会があって、地元の中学校に行ったのだが、給食が出た。食べ盛りの中学生が相手の給食では、年寄りには無理だとは思いつつ、これも仕事の一つだと思って、いただいた。実は意外に美味しかった。給食の研究もあるが、給食メニューなどは世相を反映しているようだ。物価高の今日、贅沢な料理はできないというものの、自分たちが子供の頃には考えられないような美味しいメニューだった。学校の授業の仕方も昔とは違う。1人1台のGIGA端末が整備されているので、活用の仕方で大いに違ってくる。
それでも授業は、起立礼、よろしくお願いしますの声で始まるのは、日本人としては郷愁があって、どこか嬉しい。我々の世代を引き継ぎ、未来につなげていく子供たちだと思えば、どこか連帯感を感じる。まったくの他人とは思えず、先輩・後輩という関係ではないが、同じ地域に暮らす子供たちと思えば、何か手助けしたくなる。授業を参観すると、日本人としての教育観と近代の考え方が共存していると感じる。それが自然なのだろう。自分の専門では、テクノロジーの活用なので、近代風の考え方や学習観をベースにしていると思われているのだが、本音を言えば、不易と流行、日本人アイデンティティと先端技術と現代の思想が混在している。
デジタル技術が使えなければ、高齢者であっても生活に支障をきたす。しかし同時に、昔から受け継いできた日本の伝統もまた守っていきたい。自分も古い人間なので、明日は月一度のお墓参りにも行って、亡き両親に手を合わせる。そのおかげで生活しているからだ。新聞に「征きしままの兄の生命(いのち)をいただきて九十五歳の春を寿(ことほ)ぐ」(神郡一成)の句があった。戦争で亡くなった兄のおかげで、自分は長生きをさせていただいている、と読めるが、その通りだと思う。昔から変わらぬ学校給食も、時代に合わせて美味しさを工夫し、自分のような老人も、日本人であるメンタリティーを持ち、デジタル技術も使いこなして現在を生きている。その意味では、昔から変わらぬメンタリティーで人々は共感し、近代技術で未来を切り開いていく、そのような生活を望んでいる。今回の選挙で高市大旋風が起きたのは、市井の人々が、彼女の中に、その両方を見たからではないだろうか。
