感動

 今は火曜日の夕方、2階の書斎の窓から見る空はまだ明るい。それだけ日が長くなったのだろう。今日の午後は市役所で会議があり、戻ってきてすぐに着替えて、西の方角に向かってジョギングをした。短い時間でしかもゆっくりとした走りなのだが、夕方の少し前の今時の空気と周りの風景が好きで、運動したくなる。自宅に戻る時は自分の影が長く映って、その影を追うように足を進めている。ジョギングをしながらも、会議での議論を思い出したり、これから先のことを意味もなく想像したりする。こんな風に緩やかに一日が過ぎていくのは、心が安らぐ。

 今日の午前中は、書斎で仕事をしていたのだが、ある必要が生じて、AIを用いたイラストを描いていた。この表現は間違いである。AIに依頼して、イラストを描いてもらった。その出来栄えは素晴らしく、どのように表現していいか言葉が見つからない。AIは技術であり道具なのだが、今の自分には、天才的な相棒だと思える。相棒と言っては失礼で、尊敬する師匠であろう。ともかく、このようなイメージのイラストと書くだけで、たちまちに自由奔放に描くのは、人間では不可能で、すごいという感嘆詞を超えて、感動的である。感動とは、これまでの自分の認知や感情では掴みきれなくて、脳の部位の構成が再編成されたような気がする。

 土曜日から月曜日まで3日間で、ある応募作品の審査をした。月曜日に審査した作品が素晴らしく、この先生方の努力や意気込みや情熱はどこから来るのだろうか、これほどまでに人を惹きつけるのか、ただ素晴らしいのひと言であった。これも表現するなら、感動したとしか言いようがない。自分は審査員の立場上、もろ手を挙げてすごいとは言いにくい。人間のすることだから、どこか課題もあるだろう、欠点もあるだろうと思うのだが、それは凡人の考えることであり、世の中には、ただただすごいとしか言いようがない作品もある。凡人の頭の中にも、これまでの経験上、それなりの審査に必要な知識や感性を持ってるはずである。感動とは、それらの枠を超えて、これまで蓄えてきた認知の枠組みそのものを変えるのである。

 最近、仕事上と研究上のことで、生成AIを活用することがある。自分も研究者という立場から、オリジナリティやひらめきや気づきを最重要に考えている。だから生成AIにアイデアをもらうことは、これまで控えてきた。生成AIがすごいことは分かっている。だからその内容に引きずられ、それを引用したり真似したくなることが、自分は怖い。AIイラストレーターは言葉ではないから、引用できる。しかし文章になると話が違って、自分のアイディアでなければ、盗用になる。自分も歳を取ってきたので、生成AIからヒントをもらったり参考文献を教えてもらったりすれば良いのだが、老いの一徹というか、自分という存在が薄らぐような怖さがあるので、距離を置いている。

 ただ思うことは、歳を取っても感動はあるということだ。感動があれば、生きていて良かったとすら思う。技術に感動し、優れた人物に感動し、素晴らしい作品に感動する。脳も心も体も揺さぶられるのだ。自分もまだこんな気持ちになれるのだと思うだけで、嬉しさが湧いてくる。新聞に、「ぽんこつを互ひに笑ひ去年今年」(清正風葉)の句があった。去年今年(こぞことし)は新年の季語らしい。まるで我々老夫婦のことを詠ったような句で、体のあちこちや脳のどこかも部品が弱ってきて、ぽんこつになってきた。それでも嬉しい事があれば笑い、悲しい事があれば涙を流し、感動すれば身も心も喜びで震える。だから生きていけるのだ。今日は2月3日の節分である。この後お風呂から出たら、豆まきをし、恵方巻をいただく。鬼は外と言って庭に豆をまき、福は内と言って居間に豆をまく。年寄りが子供になったようでどこかおかしいが、まだ生きている証拠である。有難いことである。

 

 

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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