研究会の講演

 今は土曜日の夕方、いつものように書斎の窓から空を見ると、日が伸びたせいか、明るい薄青色の空が広がっている。いつものように、先ほどスポーツジムから帰って来たばかりで、ビタミンCを補給して一息ついて、2階に上がってきた。今日は小春日和で、ジムからの帰り道で、親子連れや若者たちや子供たちともすれ違ったが、どこか華やいでいるような気がする。ジムから西方向に向かって歩くので、遠くに見えるマンションや家々は明るい日差しに包まれていた。


 実は金曜日の夕方にブログを書く予定をしていたのだが、時間がなかった。金曜日の午後は市内の学校の研究発表会があって、自分が一年間関わってきた関係で講演をして、その後諸々の感想やら今後の取り組みやらなどを関係職員の皆さんと話していたので、帰宅は予定より遅れた。実はこの講演には少し事情がある。研究発表会の2日前に教育センターからメールが来て、講演時間の中に公開授業についてのコメントを入れて欲しいという要望が、学校側から来ているのでよろしく、という内容だった。


 一瞬急な変更なので、講演は大丈夫だろうかと思い、公開授業を見学して、すぐにコメントが言えるだろうかと不安になった。それが正直な自分の気持ちだった。公開授業は7教科で、コメントしたとしてもそれなりの時間がかかる。講演内容をどうしようかと思って、スライドを見直した。歳を取ってくると即座に対応することが苦手になって、余裕を持って準備する習慣がついて、講演のスライドもかなり前に準備していた。それを画面に提示して内容を確認した。そして愕然となった。


 あれほど準備していた内容が、自分の頭に入ってこないのだ。どうしてもピンとこない。なぜだろうと思い焦った。そんな時、人は楽な道を選ぼうとする。いっそのこと7つの授業のコメントを話し、授業者に質問をして、講演時間をそれで埋めたらどうだろうかと思った。そうすれば自分と参加者との間に会話が飛び交って、むしろ充実した時間になるのではないか。自分が独演会のように話すのは、むしろ退屈ではないのか。学校側の要望では、授業コメントと講演なのだが、それは無理で、授業コメントだけで済ます方がふさわしいのではないかと思った。


 仮にその方式を採用したとしても、授業コメントは何の準備もなく、出たとこ勝負で話しなければならない。簡単な概要は書いてあったとしても、それを元にしたコメントは、参加者の胸には響かない。生きた授業を見ていないからである。一つの授業を5分程度見たとしても、自分にそのポイントが見えるだろうか。それでも多分講演時間は埋まらない。そうならば、これまで準備した講演スライドを、コンパクトにまとめなければならない。それしか自分の責任は果たせないだろう。


 一昨日その作業に取り掛かった。それは自分にとって不思議だった。一時間でも話せる内容の骨子は同じだが、ほとんどすべての資料が入れ替わり、1/3くらいの分量になったのだろうか。それが出来上がった時、自分の胸にスッと入ってきた。自分が言いたかったことは、これではないのかと、まるで自分の分身が生まれたかのように、生き返った。この資料で時間が足りるかどうかは別として、なんとかなると思えた。


 昨日の講演は、予定通り公開授業のコメントを話したら、残り時間が少しだけになった。その時ふと思った。参加されている先生方は、授業コメントだけでなく事前告知のチラシ通り、講演も聞きたいのではないだろうか。それを伝えなければ、自分はまるで詐欺師のようなものではないか。そう思ってスライドを投影した。先生方がノートにメモを取ったり、こちらを向いている姿が、自分には眩しく見えた。話を聞いてもらえるだけでただ有難かった。時間を忘れた。終わった時、大幅に講演時間を過ぎていた。


 文脈は離れるが新聞に、「落ち葉掃くそんなことさえ嬉しくて病癒えたる顔の輝く」(杉本葉子)の句があった。自分の心境はこの句の通りだった。自分のようなものでも、少しお役に立てたという嬉しさである。そして思う。授業コメントを入れてほしいという要望が、講演内容を変えてくれたのだ。準備した内容であったら、何も参加者の心には入っていかなかっただろう。その要望が自分を変えてくれたのだ。準備した内容で満足するのではなく、もっとマシなスライドを作れという声だったのだ。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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