帰り花

 今は火曜日の夕方、少し日が長くなったせいか、書斎の窓から見る空は、薄い青色と灰色のグラデーションで、西の方角は少し明るい。久しぶりに今日は学校訪問があって授業を参観し、そのコメントを午前中に送った。これは地元の学校への奉仕活動のようなもので、GIGAスクール構想で1人1台端末が整備されて以来、教育センターに協力して授業改善のお手伝いをしている。もう5年近くになっているので、自分の仕事として脳にインプットされている。

 公立の小中学校の授業は、12月は中旬まで1月は中旬から始まるので、約1ヶ月間の空白がある。もちろん専任の先生方は授業以外の仕事もあるので忙しいが、自分と教育センターの担当指導主事は授業だけに関わっているので、今日はちょうど1ヶ月ぶりだった。誰でも同じだと思うが、長い間の空白があると、そこに復帰するのはなかなか腰が重い。その間に別の仕事や研究をしているので、頭の切り替えが難しい。それは机の上のパソコンに向かっている環境と、生徒たちが学んでいる教室の環境が違っているからだ。環境によって脳の働く部位が違う。

 先生と生徒たちが、黒板やタブレットなどを使いながら授業をするのは、何が起きるか分からない。生きている環境である。今日は中学校だったので、発育盛りで伸び盛りの若い生徒たちは、先生や自分たちとは違う発想やエネルギーを発散している。それをうまくまとめ、拾い上げ、形を作っていくのは、先生の役割である。それは大まかな台本を下敷きにした演劇である。自分はいわばその舞台を見ている観客である。素晴らしい演劇を見れば、誰でも感動するし、それを体験したいために、入場料を払って劇場に入る。自分は有料ではないが、似たような世界だと思っている。

 自分は演劇評論家のようなもので、その感想を学校にメールで送る。先生方も忙しく議論する暇もないので、文章にして添付ファイルで送っているが、それは自分の宿題のようなものである。ただどんな授業でも、必ず気づきがある。こんなことは分かっていると思っていても、こんなレベルしか分かっていなかったのだという気づきである。それは自分にとっては小さな宝物である。机の上のパソコンの中の論文と、生きた生徒たちが織りなす物語の違いだろう。そういうことだったのかという気づきは、この生きた演劇と役者からのご褒美である。今日もそんな気づきがあった。

 そして自分はこの歳になっても、まだそんな夢のようなことを追いかけているのかと苦笑することがある。本当にそれは夢なので、このブログでは書かないが、今でも追いかけている。先ほど、ゆっくりとしたジョギングから帰って、冷たいお茶とグレープフルーツを食べて、一息ついた。その時、自分は贅沢な生活をしていると思った。金銭的なことではなく、運動もし、頭も使い、そしてまだ夢を追いかけているという贅沢さである。文脈は離れるが新聞に、「雨降りてあの桜坂帰り花」(中島紺)の句があった。撰者の評に、桜坂は、アイドルの名前か歌かなどと書いてあった。自分は桜坂のことは知らないが、春の頃は、薄桃色の桜が咲いて、この坂を行き来する人々は誰もが喜びで満ち溢れていただろう。そして桜の花びらが散る頃は、この坂は絨毯のように花びらで覆い尽くされていただろう。ネットで調べたら帰り花とは、季節はずれに咲く花で冬の季語だという。そこに雨が降っている。冬の雨は寒く冷たい。それでも狂い咲きのように花が咲いていたとすれば、どこか侘しいが応援したくなる。

 自分ももう老いて、それでも夢を追いかけているとすれば、それは小雨の降る道に咲く帰り花だろうと思う。自分の知り合いや子供たちも、こんなブログを読めば、驚くか年寄りの冷や水だと思うかもしれない。だから今日のブログを書くのは少し迷った。本当は隠しておきたかったが、日記なのでいいだろう。どんな夢かは笑われるので、止めておく。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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