小さな負荷

 今は金曜日の夕方、いつもの通り2階の書斎で南向きの窓から景色を見ている。近所の住宅の向こうに、マンションが見える。先ほど数えてみたら6棟もあった。この所沢市内はなぜか大都会並みのマンションが立ち並び、人口も減っていないようだ。所沢駅近くの小学校の児童数は1000人を超えている、というから驚く。自宅は、所沢駅から電車で3分の駅が乗車駅で、駅から近い。どの地域でも駅近くにはマンションが林立して、朝夕は通勤する人で賑わう。自分はフリーランスという立場から、ほとんど通勤することはないので、混んだ電車に乗らなくて済む。

 歳をとってくると誰でも同じだが、電車通勤はしたくない、人ごみの中に居たくない、騒がしいテレビ番組は見たくない、などとずいぶん勝手なことを言うようだ。振り返ってみれば、若い頃はよく朝早くから夜遅くまで出かけていたと感心する。電車が混むのが嫌で、朝6時前に家を出て、大学のある駅前のコンビニで小さな朝食を取っていた。冬の頃は、おでんが大好きで、こんにゃくや大根などを買ってコンビニの前で食べていた。これがもう絶品の味で、お腹が空いていて、背中を丸めるような寒さの中で、温かいおでんを食べるのは、これ以上の幸せはないような気持ちだった。そんなに朝早く出かけなくても良いのだが、早起きは三文の徳とばかり、早めに研究室について仕事をするのが自分の性に合っていた。

 大学に来る前は高校の教師だった。若かったから廊下を常に走っていたような気がする。走らなくても授業には間に合うはずだが、そうしないと何か調子が出ないような気持ちだった。あるときベテランの女性の先生から、皮肉を言われ注意されたことがあった。教師はもっと生徒の手本になりなさいというような言葉だったと思うが、あまりピンとは来なかった。そんな癖が今でも続いているのかもしれない。先ほどジョギングから帰って来たばかりである。散歩する年配者は多い。自分はどうも散歩するのは時間の浪費のような気がして、ゆっくりながらジョギングをしている。体に負荷がかからないと、醤油をかけない刺身のような感じで、自分の性分に合わないのだ。

 といってもジョギングのコースは、西の方向にある通称、春の小川と呼ばれている場所の向こう側までの往復である。なぜこのコースが好きかといえば、自宅の近くに小川が流れていて、その川沿いに小さな道があり、その両脇には昔ながらの農家や畑などがあって、童謡の歌詞に出てくるような風情なのである。小川には白鷺や鴨がいて、寒くないのかなどと思ったりする。大きな白壁の蔵があって、昔は庄屋だったのかなどと思う農家もある。一面の麦畑があったり、グレープフルーツの木があったり、ビニールハウスが畑に点在していたり、走りながらそれらの光景を見ていると癒される。

 だから年寄りのジョギングは、癒しも兼ねているので激しい運動ではなく優しく、しかしながら小さな負荷を自分にかけて、健康を保とうとするのだ。しかし癒されるだけでは人は生きてはいけない。小さな仕事でも研究でも良いので、頭に負荷をかけることもまた大切である。満員電車には乗りたくないが、ゆったりと座れる座席がある電車なら乗るだろう。同じように仕事でもジョギングでも、ゆったりとした気持ちで対応したいのが老人の本音だろう。確かにそれは身勝手で贅沢な願いかもしれないが、人にはそれぞれに合ったやり方がある。それは自分と身の回りとの調和である。

 新聞に、「夜学生へチョーク一本熱弁す」(今泉準一)の句があった。作者は若い頃の自分を思い出したのか、あるいはそんな熱血教師がいたことを思い出したのか、どこか正義感を身に纏ったような教師はどこにでもいる。自分もそんな教師の一人だったかもしれないが、年を取ればその姿も変わっていく。ただいくつになっても、自分の芯を貫いている信条や信念などは変わらないような気がする。それは身の回りや状況に合わせながらも、多少なりとも人のお役に立てばよいと思うからである。お役に立てれば、それが老人への最大の報酬である。

 

 

 

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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