今は火曜日の夕方、いつもの通りだが、書斎の窓から見える空は真っ暗である。先ほどまでメールを見たり、明日のオンラインの準備をしたりしたので、ブログを書く時間になっても用事が済まなかった。お正月も終わったのだが、学校の授業はまだのようで、自分も来週から学校訪問をする予定である。だから今週は比較的時間の余裕があって、自分なりの研究的な仕事をしている。どんな小さな研究でも、ルーチンワークの仕事とは違って、新しいアイデアや結果を出すことがミッションなので、それなりの努力をしなければならない。
研究とは面白いもので、あーでもないこーでもないと、もやもやしている内に、どこかヒントが生まれて、小さな発見がある。発見というと大げさなので、気付きと言ってよいが、その瞬間がこの上なく嬉しくて、この歳になってもまだ続けている。どんなテーマなのだと聞かれても、企業秘密のようなものなので、このブログでは書かない。子供が秘密基地に自分の宝物を隠すようなもので、公開するまでは誰にも話さない。また研究は、ケチをつけようと思えば、いくらでも付けられる。歳をとってくるとそれが嫌で、研究発表などはほとんどしない。公開するとすれば論文である。論文ならば面と向かってやり取りすることはないので、メンタルの負担が軽減されるからである。
今日も午前中、データを元に資料を分析したり文献を調べたりしていたのだが、どうもしっくり来ない。どうしても腑に落ちず、明確に切り分けることができなかった。その理由を説明するのは難しく、たぶん伝わらないので、自分の感じ方だけを述べる。今取り組んでいるテーマは、まるで雲の中を歩いているか、もやのかかった霧の中でさまよっているようで、ぼんやりとした形だけが浮かんで見える。若い頃はそうでもなかった。何かもっと明確に、切れ味の良い刀でスパッと処理するような研究だったような気がする。そのような研究であれば、論文にしても発表しても、誰もが納得するだろう。なぜなら本人も査読者も読者も、共通基盤があるからである。
生成AIの回答の仕方は、切れ味の良い刀で切っていると感じる。それは言葉の世界で処理しているからだろうと思う。ビッグデータはほとんどが言語なので、そこに論理が横たわっている。つまりサイエンスなのである。言葉と言葉の関係を組み合わせ、論理的な処理をして回答すれば、それは科学的な論文と同じである。したがって多少のハルシネーションはあったとしても、生成AIは自信満々に答える。それはまるで新進気鋭か、脂の乗り切った研究者の書いた論文のようである。論理の世界では間違いがないので、そのような世界になるのだろうと思う。自分も若い頃はその通りだった。
ところが人の世を長く生きていると、特に教育はサイエンスが半分で、残りは未知だと気が付く。正しくは未知ではなくて、アートだと思っている。これを書くスペースもないので省略するが、人の織り成す営みは、科学や論理が半分、残りはアートだと思う。学校に行って思うことは、毎時間の授業は、教師と生徒の作り出す芸術であり、作品であり、どこか感動がある。昨日の新聞に、「寅さんのラストシーンのような空 貧しくたって青かった空」(桃井恒和)の句があった。若い頃はこの通りである。迷いがないのだ。まっすぐに自分の道を進む姿が、どこか眩しい。誰も辿ってきた道であり、歳を取ってきて振り返ると、真っ青な空のような透き通った光景だったのかと思う。しかしあえて言えば、今の年齢でしか見えない世界もあり、それを言葉で残し伝えることも、老いた研究者の役割なのかもしれない。
