八百万の神

 今は土曜日の夕方、いつものように南向きの書斎の窓から空を見ている。1月3日なのでまだ三が日ではあるが、自分は今日から平日の感覚に戻っている。少しだけ日が長くなったのか、真っ暗ではなく青みがかって西方向はほんのりと黄色のグラディエーションの空である。こんな夕空を見ていると、お正月ももう終わりかという気持ちと、何かしなければという平日の気持ちが混じって、ホッとするようなけだるさと、きちんとブログを書かなければいけないという小さな緊張感が混じっている。

 先ほどいつものように、スポーツジムから帰ってきたばかりである。元日と2日は、今日と違って、お宮参りをしたり、昼間からお酒を飲んで昼寝をしたりした。今年は子どもたち孫たちも泊まることはなく、お宮参りと昼食を一緒にしただけであった。それでも久しぶりに話をすると、アルコールのせいもあって、嬉しくなったり陽気になったりして、暖かい日差しが注ぎ込む部屋で話をすると、あっという間に時間が経ってしまった。子や孫のことを聞くと、それは俺の親父とそっくりだ、それは俺の遺伝かもしれないなどと、いつの間にか饒舌になった。これがお正月なのだ。どの家庭でも似たようなものだろう。

 考えてみれば、12月のクリスマスはキリスト教、31日の除夜の鐘は仏教、お正月のお宮参りは神道で、日本人は1週間でいろいろな宗教に出会う。そういえば昨日今日の箱根駅伝では、山の神がいた。八百万の神と言うように、山でも海でも川でもすべてに神が宿り、そしてそれを敬う。自然と共存する日本人の特性なのか。自然は美しく神秘だけでなく、猛威を振るうこともある。だから八百万の神としてあがめて、仲良くしようと思ったのだろうか。その思想は、多分自然だけでなく、地域に暮らす人々の生活の中にも入ってきて、助け合う協調性が日本人に生まれたのだろうか。

 遠い祖先の日本人たちは、協力しなければ生活できず、まるで親兄弟のように、地域の人たちは、嬉しい時は喜びを分かち合い、悲しい時は慰め合い、大変な時は協力し合ってきたのだろう。年末と年始のテレビ番組で、厳しい自然災害を経験している人たちが助け合っている姿を目にして、こうやって昔から日本人は乗り越えてきたのかと思った。地域の人たちは、まるで身内のような感覚を持っているのかもしれない。子どもや孫が頑張っていれば、自分のこと以上に嬉しくなり、壁にぶつかってもがいていれば、応援したくなることと同じだろう。

 八百万の神という、自然とも環境とも地域の人々とも、一体感を持って協力して困難を乗り越えようとすることは、素晴らしい日本人の特性ではないか。そして自分は振り返ると、身内には一体感があっても、他人に対してはそうではないと自省した。仏様でも神様でもないので自省しなくても良いのだが、昨日話をしていてふと思った。「隣の芝は青く見える」諺を思い出し、その通りなのだ、一点の不安も困りごともない人は誰もいない。近所を見ても、同僚を見ても、皇族や有名人を見ても、誰も同じである。そう思ったら、他人が少し身内に近くなるような気がした。昔の日本人はそのことをよく知っていて、助け合ってきたのではないか。せめてお正月ぐらい昔の人を見習おうと思い、できれば長くその気持ちを維持したいと思った。

 お正月の新聞には読者からの投書がなかったので、約2週間前に掲載された句を引く。「嫁入り前母と歩いた落葉道「カサカサ」の音今も聞える」(高橋芙美子)。作者にどんな感慨があったのか、もっと頑張らなければならないと思ったのか、母親ならどんな時でもいつも味方になってくれる、優しく元気づけてくれる、そう思ったのかもしれない。なんと身内は有難いものだろうか。脈絡は離れるが、歴史を見ても今の世界を見ても、戦争が絶えない。なんとか身内のように、助け合い協力し合い手を取り合うことはできないものか。「隣の芝は青く見える」と錯覚しているだけではないのか。戦争の犠牲者は、未来を生きていく幼子や子どもたちである。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す