外の世界

 今は金曜日の夕方、いつものように書斎の窓から外を見ると真っ暗で、冬至から数日しか経っていないので日の暮れるのが早い。朝夕はめっきり寒くなった。危険な暑さとか猛暑と呼ばれた夏も過ぎ、暖冬と言われながらも、ここ数日は冬の景色になって、北国では大雪注意報が出ている。太平洋側の地域でも、雪は降らないが寒さが身にしみる。一昨日は一日中雨で一段と寒かった。自然にやはり例外はないようだ。

 明日土曜日にブログを書くのが通例だが、月曜日に書いたので4日目なので良いかと思い、パソコンの画面に向かっている。昨日木曜日の夕方オンラインの打ち合わせがあって、それが仕事納めであった。水曜日も定例のオンラインのイベントがあった。正直に書けば、このイベントは自分は苦手な分野だったので、少し気が重かった。雨が降る寒い一日だったからかもしれないが、どうしようかと迷っていた。誰にでも同じような経験があるだろう。苦手な分野で対談をすると、不安になる。いつもは臨機応変に対応すればよいのだと思っているから、ほとんど準備しないで対応してきた。

 しかし一昨日は違っていた。何の資料もなくその場で対応するには、自分の知識が乏しすぎる。心のどこかで逃げたいとか、早く終わってゆっくりお風呂に入りたいとか、そんな思いが頭の中をぐるぐる回っていた。そしてふと思いついた。自分に知識がないなら調べればよいではないか、という当たり前の対応策である。さっそくネットで調べたら、ああ、こういう事なのか、なるほどそういえばこんなこともあった、といつの間にかその世界の中に入っていた。自分に知識がないだけ、乾いたガーゼに水が染み込むように、自分の脳の中に入ってきた。それは楽しい作業だった。何か嬉しくなってオンラインで対談したら、相手の先生の話はさらに予想を超えた内容で、素晴らしいの一言であり、自分は感銘を受けた。

 その後、自分はなぜあの時調べればよいのだという平凡なことに気づかなかったのか、気づくまでに悶々と一人相撲をとっていたのか、と考えた。そしてそれは、いつも通りでよいという思いから抜け出せなかったからである。事前に調査するという作業は不要だという思い上がりだったのだ。習慣化された行動や考え方は、それが当たり前と思っているから、そのこと自身を疑う目や耳はもっていないのだ。専門家とか高齢者になれば長い間その世界で生きているので、それ以外の世界が見えず聞くこともできないのか。それは怖いことではないか。自分の世界から外へ目を向ければ、あれほど不安だったイベントが感動に変わる。

 文脈は遠く離れるが新聞に、家々の柿の明かりにつつまれぬ(芝岡友衛)の句があった。最近はあまり見なくなったが、農家の軒先にたくさんの干し柿がつるしてあって、それが黄色に赤紫が混じった鮮やかなオレンジ色で、今時分の冬の青空をバックにすると、そのコントラストが目にしみるような感じがする。渋柿があの甘い干し柿になるのかと思うと、なぜか心が豊かになる。そしていつまでもこの平穏な日々が続けばよいのにと思ったりする。作者は、干し柿という明かりに包まれたような幸せそうな家々だと感じたのかもしれない。日常生活の中で、ふと平和な家々だと感じたのだろうか。それは非日常的な感覚かもしれない。自分が別世界のように感じたイベントも、同じ非日常的な感覚だったような気がする。山に登ってその頂上で下界を見ているような感じで、平地に住んでいればその感覚は出てこない。あと数日で今年も終わる。今年一年の自分を振り返ってみたい。

 

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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