今土曜日の夕方、外はもう真っ暗で、11月の末ともなれば昼間の時間は短い。初冬というには暖かすぎるので、晩秋の言葉がよく似合う。土日の休みの日はスポーツジムに行って、健康維持に心がけている。自宅への帰り道が西向きなので、薄茜色に染まった空が美しく、今日も一日ほぼ終わりかという安らぎと、平穏無事で良かったという安堵感が混じって、静かな秋の夕暮れに感謝した。昨日の夕方ジョギングしていたら、近所にある公園が銀杏の葉っぱの黄色い絨毯で、すべて覆いつくされていた。2人の子供がキャッチボールをしている姿を見て、秋は平穏でいいなあと思った。
しかし最近、我々の地域にも、強盗などが出没して何件か被害にあったと報道があった。我々老夫婦とすれば大事件であり、何か対策を取らなければならない。家内はこのような治安対策には長けていて、窓は二重ガラスでロックも頑丈で、玄関の扉には鈴までつけている。当然ながら玄関にはセンサー付きの街灯がある。庭にも東向きの壁にも同じ街灯があって、たまに猫などが通るとよく光る。だからもうこれ以上対策はいらないだろうと思っていたら、防犯カメラを付けたいという。確かにそれは良いアイデアで、玄関に誰か入ってくれば、通知してくれればありがたい。インターフォンはすでに設置してあるので、どのようなデバイスはいいのだろうと思っていたら、家内がネットで調べて、スマホに通知してくれる防犯カメラがあるという。
自宅に出入りしている電気屋さんにお願いしたら、外壁からの電源コードがかなり長く、カメラ本体の他にかなりの設置費用がかかると言う。見積もりをもらう間に、家内がネットで調べたら、いろいろなタイプがあるらしく、最も設置が簡単なデバイスを選んだ。自分が電気量販店に行って昨日買ってきて、今日自分が設置した。そして試験運用を、スポーツジムから帰った先ほど行った。確かに簡単で効果的である。カメラは動きが生じた時だけ電源がオンになり録画をする。その知らせをスマホに送ってくる。我が家のWi-Fiに繋いであるので、感度は良い。テスト結果は上々ではあった。
しかし若干困ったことがあった。我々が玄関から入っても、誰かが玄関前の道路を通っても、車が走っても、その通知がスマホに送られる。確かにスマホには人物マークと物体マークがあって、AIが画像認識しているのか、スマホを見ると動画がその度に数秒間録画されて、クラウドに保存される。しかし老夫婦二人のスマホは、しょっちゅうピンピンと通知音が鳴っている。こんなはずではなかった。時間設定とかあるはずなので、アプリを操作してみようと思ったのだが、よくわからなかった。そして時間切れになった。
正直なことを白状すれば、自分はスマホのアプリの操作は苦手である。パソコンもスマホも同じはずなのだが、相性が悪いのか、なかなか思い通り動いてくれない。何より設定に時間がかかるのが嫌で、たぶんスマホの方も嫌がってるのだろう。それはアプリを開発するデザイナーの考えと、使う側のユーザーの考えが一致しないからであり、情報科学の分野ではインターフェースの研究として重要視されている。そしてふと思った。それはアプリの操作だけではなく、すべての面でその不一致が重要なのではないだろうか。
文脈は離れるが新聞に、秋寒し悲しきクマのぬいぐるみ(山田真理子)の句があった。かつて可愛らしいと評判のクマのぬいぐるみも、今は誰も見向きもしないだろう。熊は動物だから人間のことはわからず、餌が不足したので市街に降りてきて、人間に被害をもたらしている。動物は本能で生きることが基本的な行動様式であり、人間のような複雑な思考はできない。だから熊と人間には本質的な違いがあり、折り合うことができないのだ。異常気象もなく正常な気候であれば、山にも豊富な食糧があり、熊も猟銃やライフル銃で駆除されることもなかっただろう。
しかしそれは熊と人間だけでなく、人間の世界でも考え方が違えば、戦争をして人が人を殺戮している。理性ある人間であっても、基本的な考え方が違うだけで、大量殺戮をする兵器を持ち込んで、無残な光景を繰り広げている。何も罪のない幼い子供たちまで死に至らしめているのは、どう考えてもおかしい。しかしそれは個人対個人であっても同じである。人は煩悩の塊のようで、小さくても憎しみや毛嫌いする気持ちは誰にでもある。ただそれではあまりにも悲しく、なんとか手を取り合って生きていこうと、自分に言い聞かせているのではないか。多様性を認めることはなかなか難しい。
