今は土曜日の夕方、書斎の窓から南の空を見ると、もう真っ暗になって今日も一日が終わることを告げている。ブログの書き出しもいつもほとんど同じだが、今日もスポーツジムに行って、一息ついて2階の書斎に上がってきた。平凡だが一日があっという間に過ぎていき、夕食を食べてテレビ番組を見れば一日の終わりである。ブログで書くのは恥ずかしいが、9時になると眠くなり、翌日は5時に起きるのが日課である。そんな平凡な一日にもさまざまな変化がある。ジムからの帰り道、いつものように西の方角に向かって帰宅していると、灰色の雲と薄茜色に照らされた白い雲が浮かんでいて、静かな秋の夕暮れで何事もなく過ぎていく一日が、どこか愛おしいような気もする。
そんな優しい気持ちになっている時でも、お昼のテレビニュースなどを見ると心が騒ぐ。あちらこちらで熊が出て被害が起きたとか、大火災にあって家を失ったとか、他人事であっても同情する。しかし中には、某国の政府高官のあまりにも不見識で非常識な態度に怒りを覚えたニュースもあった。これでも国の重要案件を審議する人間なのか、一言で言えば品格がないのだ。自分は教育に関わる仕事をしているので、どのような地位になっても、どのような経済状態であっても、人間としての品格は持っていなければならないと思っている。食べる餌がないので、熊は市街地までやってくる。つまり自分の欲望を満たすために、なりふり構わず行動するのだ。某国の高官は人間ではなく熊と同じ動物に近い。自分のブログで政治に関わる内容はほとんど書いたことはないが、この頃ニュースを見るたびにイライラが募ってくる。
日本の外務担当の高官も苦しい立場であろう。耐えながら折衝しているように思われる。驚異的な高支持率の内閣も、この一件で苦しい立場になった。そしてふと思う。世界中どんな人も、好都合のことばかりは起きず、必ず落ち込む時がある。政府であろうと平凡な家庭であろうと、高官であろうと庶民であろうと、その繰り返しの中で生きている。人はその波にもまれながら、なんとか事態を改善しようと努力する。自分を振り返ってもその通りである。問題は落ち込んだ時の対応の仕方なのだ。たぶん正解はないだろう。油断大敵とか好事魔多しなどの格言はあっても、どうしたら良いかについては教えてくれない。
新聞に、辛い時「お姉ちゃーん」と呼んでみるベランダに出て空に向かって(田中澄子)の句があった。国際間の政治のような難しい課題には適用できないだろうが、庶民の生活では意外と効果的ではないのかと思った。つまり声に出してみることだ。これも庶民の知恵で、苦しいことがあれば声に出して発散しろということだ。心の中にあるモヤモヤが外に出るのだから、多少スッキリすることは常識的にも分かる。声に出してみれば、自分の立場を、声を通して振り返ることができる。自分はこんなことを考えていたのかと気づくことができる。ある論文で、身体性認知を利用した学習法を読んだことがある。認知は頭の中だけで起きることではなく、身体や環境と関わり合っているという考えである。だから頭だけから体全体に広げることで、解決の糸口を見つけることができるのではないだろうか。
坂本九さんの「幸せなら手をたたこう」の大ヒットした歌があった。その中に、「幸せなら態度で示そうよ」の言葉もあった。手をたたいたり足をならしたり肩をたたいたり、文字通り身体性認知である。とすればこの作者の大好きな姉に、お姉ちゃーんと呼びかけるだけで、塞ぎこんでいた気持ちが安らぐのではないか。そしてベランダで空に向かって話をしたら、天国のお姉ちゃんが聞いてくれるような気がして、そして優しい笑顔が浮かんできて、また頑張ろうと思うかもしれない。そのようにして人は生きてきたのだろうか。不幸せなら声を出そうよ、好きな人に呼びかけようよ、そして態度で示そうよ、と言えるかもしれない。
