今は水曜日の夕方、いつものように書斎の窓から外を見ると、今の時期は真っ暗である。火曜日の夕方でないのには事情がある。昨日火曜日の午前中は市内の学校訪問があり、その後コメントを書き、午後に私的な旅行をして一泊した。そして今日の昼間に帰宅し、今パソコンの画面に向かってブログを書いている。正確に言うと、旅行から帰って、先ほど久しぶりのジョギングをして、その後メールの処理をして、ようやくブログを書く時間になった。
市内の学校訪問は、市の教育センターに協力して、GIGA端末の導入以来、いかに端末を活用するか、学習指導要領に基づいた授業を実践するか、などについて指導主事の先生と一緒に、毎月6校程度訪問している。訪問して話をするのではなく、授業を参観するのである。これは素晴らしいことで、いつも思うのだが、自分の方が、先生と子供たちから学んでいる。授業参観をした経験があれば、誰でもこの文章に賛同するだろう。自分が先生に教えることなどほとんどないのだが、役割上帰宅してからすぐにコメントをメールに添付して送っている。正確に言うと、A4用紙1ページ分に相当する1600字で文章化している。
その文章化は、自分にとって嬉しくもあり厳しくもある作業である。なぜならその見方は、自分の学習観や指導観そして知識に依存するからである。一般的に言えば、正確に知識を伝える、または教えることに情熱を傾ける先生もいれば、子供たちに任せ、自由な発想を大切にする先生もいる。自分を振り返ってみても時々忸怩たる思いをする。なぜなら高等学校や大学では学習内容を伝えることや教えることが中心となりやすく、小学校では子供たちの発想を大切にする比重が高いからである。中学校はその中間程度であり、大学院は研究が中心なので、教えることも伝えることも難しく、いわば二人三脚で模索することになる。
自分の学校訪問は、小中学校なので学校や授業によって、内容を伝えるのか子供たちが学ぶのか、そのバランスは異なってくる。内容の伝達派は、教師はおそらく正確に伝えたいと思っているだろう。子供たちの学び派は、内容の正確さよりも表現力や想像力などを大切にしたいと思っているだろう。このブログで、どちらが重要かなどの野暮な議論はしない。正確に伝えてこそ授業で、子どもの実践に任せることは、言葉は美しいが何が正しく何が間違っているかの判断力が身につかないのではないか、という危惧を持ち、子供の自由さや発想などを大切にする考えは、そのような主体性がなければ、そもそも内容の理解などできないのだという思いもあるだろう。
今日の旅行を終えてふと思った。私的な旅行は、いわば自由であり開放感があり縛られない嬉しさがある。仕事の旅行つまり出張などは、やりとげなければならないミッションがあり、成果を見える形で出さないと意味がない。私的な旅行は、肩肘張らずに、この時間を楽しもうと考えていて、仕事による出張は、どうしても達成しようという意思がある。同じ旅行でも天と地ほどの差がある。これは授業でも同じだろう。どちらが正しいというわけではない。それは教育的信念と呼んでも良いので、簡単には変えられないのである。
今日の昼間帰宅したら、空が真っ青で冷たい風が心地よく思わず外を駆け出したくなった。久しぶりにジョギングをした。それは心が解放されて自由に動ける楽しさである。新聞に、平和とは平凡な秋空の下のこと(深町明)の句があった。今日はこの句のように平和な気持ちであった。急ぎの仕事があるわけでもなく、心穏やかに今の時間を楽しむ余裕があった。ジョギング中に、子犬を連れたおばあさんとすれ違った。何の特別な意味もない平凡な光景であったが、束の間の平和を感じた。こんな生活をしたいと思う反面、仕事や研究をするときの緊張感や充実感も忘れられない。だから授業参観して、こちらのほうが良いと断言することは、自分にはできないのである。
