秋の一日

 今は土曜日の夕方、いつものように書斎の窓から南向きの風景を眺めている。薄暗くなったが、今日は秋らしい良い天気であった。暑くもなく寒くもなく平穏な一日が過ぎようとしている。土日の休日は、仕事のイベントがなければスポーツジムに出かけて、英気を養ってくる。その帰り道、コミュニティ広場があって、そこで幼児たちがトランポリンのようなふわふわした舞台の上を駆けていた。ふわふわしているので走りにくいのだが、それが幼児には面白いらしく端から端まで順番に駆けて行った。

 幼児向けの体操教室のイベントらしく、保護者もいて、我が子の走りを見守っている。体操教室のスタッフは、若い人が5名以上いて、幼児たちを指導している。まだ幼い子供は、ふわふわした舞台に足を取られるのが怖いのか、スタッフの人に手を持ってもらわないと走れない。途中で手を離すと、泣き出しそうになって止まってしまう。その横には母親らしき人がいて、スマホで写真を撮ったり応援したりしている。西日がスポットライトのように当たって、まるで演劇のように見えた。そうか今日は土曜日か、というか三連休の初日なのかとふと思った。秋の優しさとはこのことだろうか。スタッフも母親も、そして幼い子供たちも、暖かい秋の日差しに包まれて、柔らかな日差しの中のひとときを過ごしている。自分もしばらく見とれていた。

 今日は11月1日、もう今年も残り二ヶ月になった。月日が経つのはこんなにも早いのか。そういえば近所の二人のおじいさんが、10月に亡くなった。自分も懇意にさせていただいたのだが、人間の寿命とはこういうものなのか、いずれ自分も往生する日が来るだろう。しかし今、自分はその日のことはイメージもできないし、現実的だとは思えない。だから、毎日その日のことしか考えられない。コミュニティ広場で見た幼児たちの走る姿や、若いスタッフの楽しそうな表情や、母親が嬉しそうにカメラを向けている光景など、静かな平穏な秋のひとときしか頭の中にない。

 もちろん子供たちのことや先々のことを心配しないわけではない。息子や娘たちが高齢者になったとき、果たして年金はどうなっているのだろうか、孫たちは平穏な暮らしができるのだろうか、など思うことはあるが、たまに夕食時に家内と話す程度であって、自分たちの平凡な毎日の生活で手一杯である。老夫婦二人暮らしが長くなると、それがこの上なくありがたく思える。家族といっても、最後はひとりではないだろうか。子供たちや孫たちは当然気になるが、ひとりひとりすべて違うのだから、それぞれがそれぞれの道を進んでいくしかないのだ。往生する時に、これで良かったのだと思えれば最高の幸せである。

 新聞に、「ビルマって何処よと孫が洗う墓」(荒井篤)の句があった。ビルマで戦死されたおじいさんの墓を、作者の孫、つまりおじいさんのひ孫がお参りに来て、洗っている。このひ孫にとっては遠い昔のご先祖様だから、その曾祖父のことを知る由もない。それでよいのだ、このひ孫も毎日が目の前のことで精一杯で、これからも生きていくだろう。そして気がついてみれば、こんなにも早く年月が経っていたのかと、驚くのである。今日のような安らかな秋の一日を過ごせれば、それでよいのだ。家内には家内の、子供たちや孫たちには、それぞれの生き方がある。そしてそれなりに頑張っているようで、それで充分である。自分も同じである。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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