今は火曜日の夕方、この季節だと日が暮れるのが早い。南の空に半月のような三日月のような月が、くっきりと見える。今日は快晴であった。朝起きて朝食をいただく頃、庭に朝日が降り注いでいる光景を見て、気持ちまで晴天になる。庭にある小さな菜園で、大根やほうれん草や豆などを植えているが、小さな芽が土から顔を出すと、どこか可愛らしさがあって毎朝見るのを楽しみにしている。SNSなどを読むと、老後は田園風景豊かな土地に居を構えて、ゆったりとのんびりと畑仕事などをして楽しみたいと期待している人がかなりいる。
そんな夢を叶えるのもいいだろう。SNSの別の記事では、田舎暮らしはそれなりの苦労があって、その地域のしきたりがわからないとか、初めのうちは良かったが、野菜作りなども思ったように上手くいかないとか、車がなければどうにも生活できず、免許返上などしたら陸の孤島になってしまうとか、スーパーまで買い物に行くのに時間がかかるとか、クリニックや病院まで出かけるのは大変なことになるとか、思ってもみなかったような事態が起きて、貯金も減っていくと心細くなると書いてあった。田舎暮らしに憧れる気持ちはわかる。長い間苦労してなんとか役職についたのだから、退職したら自分の好きなことをして優雅に暮らしたいと夢を描くのだろう。今の現実からやっと逃れるという気持ちも分かる。しかしどこにいようと現実は現実である。都会暮らしで企業で働く苦しさとは違う別の苦労が待っている。
こんなことを書くと、人は一生楽しむことはなく我慢しながら現世を生きるのかと、悲観主義に陥ってしまう。この世の中には、悲観的な人ばかりではなく、楽観的な人、意欲的な人、生きがいを感じている人など、さまざまであろう。お昼のテレビニュースを見ると、日本の新総理は意欲満々で、全力で走っているように見える。今が幸せの絶頂のような姿に見える。しかし世界の誰もが、幸せの山ばかりを走っているわけではなく、不幸の谷も歩いたり、山に向かって這いつくばって登っていくこともあるだろう。そうすると、人は歓喜と悲観を繰り返して一生を過ごすのだろうか。
ただ自分には、元気な人たちは、うまくいかない時の対応をよく知っていて、それを悲観ではなく楽観的に捉えるのではないだろうか。この内閣の組閣で、自分の知っている国会議員が大臣に指名された。長い間かかって得たポストなのだろうが、彼は大臣という椅子に座ることが本音ではなく、仕事をしたいのだろうと思う。それは一国会議員よりも大臣の方が大きな仕事ができ、世の中に貢献できるからだろう。自分も何回か一緒に仕事をさせてもらったので、そんなふうに感じている。そして選挙という厳しい現実の下で、彼も何回か落選した。しかし自分のやりたい仕事を叶えるために、どうしても国会議員に返り咲きたいという意欲は旺盛で、そこに落選したという悲観の考えはなかった。それが素晴らしい生き方だと感じて、今でも尊敬している。
だから彼は、財産や地位や名誉などを求めて努力しているのではなく、仕事をしたいために努力をしていると言えるだろう。退職したら楽になりたいという気持ちは、大臣になった彼と考え方が違うように思う。新聞に、退職し自分で決める時間割今日用がある夫のしあわせ(榧守美鶴)の句があった。その通りだろう。退職してから自分の手帳を見れば毎日が真っ白で、現役の頃とずいぶん違うなあと嘆息する人もいるだろう。自分も似たような身分かもしれないが、仕事があるだけでありがたく、手帳が埋まるだけでどこか喜びがある。それは苦労も伴うが幸せなのである。つまり幸せと不幸せを切り分けることはできず、表裏一体ではないのか。日本の新総理も、緊張と喜び、不安と歓喜、苦労と安堵の両方を感じながら、全力で対応しているのではないだろうか。
