雨降り

 今は土曜日の夕方、書斎の窓から見る空は灰色一色で、小雨が降っている。今日は朝から一日中雨降りで、天気予報によれば今夜も明日もずっと雨降りである。月曜日から、からりと天気は晴れるようだが、皮肉なもので土日が所沢フェスティバルで、市民が楽しみにしているもう一つのお祭りである。自分も残念ながら、今日も明日もフェスティバルには出かけない。晴れていれば秋空の下で、老若男女が航空公園の広い芝生の上をはしゃいでいただろう。例年、自分も生ビールを飲みながら、唐揚げなどのつまみやお寿司なども食べながら、イベントを楽しんできた。太鼓や笛のパフォーマンス、大道芸人の絶妙な手さばき、婦人会の踊りなども見ながら、秋うららのように心を空っぽにして穏やかなひとときを過ごしてきたが、今年は仕方がない。ネットによれば雨天決行と書いてあるが、出かける気持ちは失せている。この時期は、川越・飯能・秩父と祭りが北上をして催されるが、江戸の昔からの行事だと伝えられている。

 だから今日一日はいつもの通りの生活パターンである。午前中は気になっている分析の仕事をした。自分は気がかりなことや、しなければならないことは、メモ帳に書いて机の前に貼っておくのだが、なかなか守れない。今日はフェスティバルがキャンセルになったせいか、糸に引っ張られるように、気持ちがそこに向かった。2012年に公開された自分の論文なのだが、分析をしないとどうしても研究が完成しないような気がしていた。研究は2011年に実施したので14年も昔のことなので、データファイルを探すのも厄介で、チェックすることもかなりの時間を要するので腰が引けていた。

 この歳になって得するわけでもないのだが、どうしても気になるのだ。研究とはそういうものかもしれない。研究だけでなく仕事も生活も日常の小さな出来事も、他人から見れば些細なことでも、本人には魚の小骨が喉につっかかっているようで、どうしてもなんとかしたくなる。書斎の窓から見る空は、朝から雨が降っている。静かな秋の長雨である。早朝にメールのチェックは終わり、朝刊読みも、朝食も済んで、自分だけの時間がたっぷりある。パソコンに向かって昔のファイルを探し、関連する資料などもアクセスして、全体を把握しようとしている内に時間が経ってしまう。このデータはどういう意味があったのか、もう一度詳細に読み返さなければならないなどと考えて、たちまち時間が経ってしまう。

 時間がなくなってきたので、自分が気になったことを振り返った。そしてそのイメージができた時、天啓のように分析方法に気がついた。それからはあっという間に作業が進んだ。得られたグラフは予想通りだった。というより、お前の考えていることはこれではないのか、というメッセージが聞こえてきた。振り返って思うことは、自分の気がかりなことが何なのか、それが明確になれば方法は見えてくる。それがわからないということは、自分自身のことが見えていないのかもしれない。今日はフェスティバルに行けない代わりに、一つ仕事が片づいた。長い間、頭の片隅にとどまっていた問題を解決したようなものなので、素晴らしい贈り物をもらったような気持ちになった。

 文脈は離れるが新聞に、「起床して日が沈むまで一篇の詩を読むような農家の暮らし」(柏屋敏秋)の句があった。詩を読むようなとは、どんな生活なのだろうか。農家であれば田畑を耕さなければならない。明るい日差しの下でなければ、野良での仕事はできないから、太陽が昇ってから仕事をし、太陽が沈むと仕事が終わる。専業農家で田畑が自宅から離れていれば、弁当を持って出かけ、鳥の声を聞きながら、のどかな食事を楽しんでいるのかもしれない。しかし今日のような雨降りであれば、自宅で藁仕事などの別の仕事をするだろう。この農家の人は、自然のなすがままに生活しているのだろうか。それが詩を読むようだとは、誠に美しく豊かで満足した生き方である。自分もそんな風に暮らしてみたい。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す