今は火曜日の夕方、いつものように2階の書斎から南向きの窓越しに空を眺めている。夕日が隣の家々の屋根を照らして少し茜色のような反射光があったが、西日が沈んだのかもう見えなくなった。その家々の向こうにマンション群が見える。もう一日が終わるのか、静かなたたずまいで秋の夕方とはこんなものかとふと思う。平凡ながら月日の経つのは早く、明日から10月に入る。今週の土日は出かける用事があるので、今日スポーツジムに行ってきた。帰りの時刻は小学生の下校時間なのか、子供たちのグループとすれ違う。子供はいつも元気で、いつも楽しそうに話をしながら、そして道草をしながらそれぞれの自宅へと帰っていく。自分の帰り道は西向きなので太陽光を直接浴びる。もうこの時刻ではそんなに暑くはない。道路は車とバイクが、そして歩道には自転車や人々が歩いている。よちよち歩きの幼子と散歩している親子連れや、自転車の後ろに小さな子供を乗せ、抱っこ紐で赤ちゃんを抱えた母親とすれ違う。なんと母親は強いものかと思い、転んだり怪我をしないようにと他人事ながらハラハラする。そして自分は帰宅して、冷たいお茶とアイスキャンディを食べて喉を潤す一時は極上である。そういえば今朝、庭を見たらきれいに彼岸花が咲いていた。別名曼珠沙華ともいうが、赤と白の彼岸花が一列に並んでいて、思わず携帯で写真を撮った。今年は残念ながら巾着田曼珠沙華公園には行けなかったが、数十万本とも数百万本とも言われる公園は一面真っ赤な世界で、この世ではないような気持ちすらする。高麗駅に下車して公園までの道筋には、地元の皆さんが野菜やら漬物やらを売っていて、それを買って帰るのも楽しみだった。公園の広場で食べる鮎の塩焼きは絶品の味だった。昨年は子持ちの鮎だったのでなおさらで、生ビールのつまみに最高だった。大勢の観光客がぞろぞろと物見遊山もしながら、駅から公園入口まで歩いて行く。その辺りは巾着田と呼ばれて、昔の財布の呼び名である巾着に似た形をした一面の野原が広がっている。2人の子どもが小さかった頃も、毎年出かけて思い出を作った。野原にはコスモスがいっぱい咲いていた記憶がある。今年は家内が長く歩けないので中止したが、来年はもう一度行きたい。そんなことを思い出していたら新聞に、花野まで前行く人を追ひ越さず(海野公生)の句があった。その通りである。秋の一日を柔らかい日差しを浴びながら長閑な田園風景に囲まれて何をあくせくする必要があるのか、みんながその空気に包まれて日頃の疲れや憂さもどこかに飛んでいってしまうのだ。だからゆっくりと人の流れに沿って歩いて行くのである。自分のスポーツジムの帰りも、似たようなものかもしれない。秋の夕方は、人に安らぎを与えゆっくりと歩く気分にさせるのだろう。外はもう日差しがかげって薄暗くなり、マンションに規則正しい明かりが灯って、クリスマスツリーのように見える。それぞれの家庭が夕食の時間を迎えようとしている。先ほどすれ違った赤ちゃんと幼子を自転車に乗せた肝っ玉母さんのような家庭にも、楽しい一家団欒のひとときを過ごせるように祈りたい。秋の夕方は人を優しい気持ちにさせるようだ。
