今は土曜日の夕方、昼間は灼熱といってもいいぐらいの暑さなのに、この時刻になると、外は涼しい風が吹いて思わず気持ちがいいと声を出した。先ほど近所のスーパーマーケットから帰ってきたばかりである。家内が退院してから自分の生活パターンも少し変化が起きた。家内一人で外出するのも少し負担がかかるので、なるべく自分が付き添っている。夕食はなんだと家内に聞くと、冷蔵庫にキャベツがあって、我が家で取れたナスと玉ねぎがあるので焼肉にするというので、自分は喜んだ。大好物である。家内が入院中も自分で焼肉を2回作った。といってもブログで書くほどのものでもなく、鉄板の上に乗せればすぐに食べられるから、誰でもできる。どの野菜もこんなにおいしかったのかと思うのは、野菜がとろけるように柔らかくなるからだろう。それが舌の上で絶妙な味をもたらすので、手間暇がかからずおいしい料理、つまりコストパフォーマンスが最高なのである。洗濯物などは自分が2階のベランダに干していたが、いつまでもというわけにはいかず、庭に物干し台をネットで注文した。明日自分が組み立てる予定になっている。庭であれば家内が洗濯物を干せるからだ。いろんな面で生活スタイルが変化していく。年をとるということは生活パターンも変わるということであり、それが自然の摂理なのだろう。一般的には何かと不便になって、こうしたいけれど仕方がないという多少諦めに似た気持ちになるのだろう。最近日本の文化と欧米の文化の違いについての文献を読んでいる。その中で日本文化は水の流れのようであり、欧米文化は建造物のような違いがあると書いてあった。水の流れとは、先ほど書いたような自然の摂理と言ってもよく無常と呼んでもよいが、年と共に植物が枯れていくように、人も少しずつ機能が衰えていき、最後は土の中なのか自然の中に戻っていく。それは川の流れが上流から下流に向かっていき、最後は海の中に、まるでそれが自然であるかのように戻っていく。そこにある意味で諦観があって、ものの哀れや無常感を感じるのかもしれない。そういえば日本の歌謡曲などは、流れ流れてとか、場末の酒場だとか、上っていくより下っていく歌詞が多いような気がする。これに対して欧米は、ピラミッドだとか荘厳な建物だとか、がっしりとした建造物で、永遠に壊れないという文化かもしれない。だから日本人の年老いた感覚と違うのではないかとも思う。テレビで見る欧米のお年寄りは、まるで若者が着るような服を着て、元気そうに見えるのはなぜだろうか。あるテーマで文献を調査しているのだが、なるほどと思うことが多い。文脈は遠く離れるが新聞に、麦秋や校舎の裏の思川(栃木安穂)の句があった。この句を引いたのは川という文字があったからである。さらに自分が勤めた白鴎大学を思い出した。麦秋(ばくしゅう)は夏の季語らしいが、夏の日差しが川を照らしてキラキラと反射する光景を、駅から大学まで歩いている時によく見た。この俳句のように、大学の裏側にこの句と同じ名前の思川が流れていた。思川(おもいがわ)という万葉集でも出てきそうな上品な名前が自分は好きだった。あれからもうずいぶん時間がたった。時が流れていったのだ。ただ自分の心境は、無常観や諦観ではない。どんな時でもどんな状況になっても、欧米の高齢者とは違った方法で、楽しむことはできると思う。それが日本の老人の知恵なのではないか。
