今日は土曜日の夕方、といっても南側の窓から見る空は夏一色で、青空に白い雲が浮かんでいる。先ほどスポーツジムから帰宅したばかりであるが、暑いの一言である。スマホの天気予報を見ると、今日の最高温度は32度らしい。風もなかったので体感温度はもっと高かった。暑い暑いと言いながら、西日を直接に顔に受けて帰宅したので無理もない。スポーツジムと自宅の途中に旧市役所の前のコミュニティ広場があって、子供や親子連れなどで賑っている。盆踊りではないが、舞台も設置してあるのでイベントである。さすがに日中はうだるような暑さのせいか、夕方から始まるようだ。生ビールや子供の好きなりんご飴や焼きそばなど、屋台も並んでいる。容赦なく西日が照りつけるので、たくさんの長椅子と机も用意してあるが、そこではなくテントの日陰に集まって、アイスクリームなどを食べている。この広場は地域住民や市民にとっては憩いの場で、8月には盆踊りもあるが、かなりの頻度で人が集まるイベントがある。太鼓の共演とか、よさこい踊りとか、市民音楽隊の演奏会などで、もちろん祝日や休日である。今日も浴衣を着た女の子たちが集っていた。ベビーカーに赤ちゃんや幼児を乗せた親子連れ、大人も子供もニコニコしながら夏のひと時を楽しんでいる。そういえば学校も今日から夏休みだろう。小中学生もいたようだ。酷暑だといっても、子供達にとって楽しい夏休みなのだ。男の子も女の子も、長い夏休みの始まりでその開会式のようなイベントなのだろう。ふと思う。こんなふうに人が集まったり街の通りを行き交うことは、なんと素晴らしいのだろうか。実は昨日小さな温泉旅行から老夫婦で帰ってきた。東北の小さな町では、誰も通りを歩いている人はいなかった。車は走っていても人影は何も見えなかった。自分は我が目を疑った。どうして生活しているのだろうか、どんな仕事をしているのだろうか、などと素朴な疑問があったが、多分これが日本の現実なのだろう。人口が2極化しているのである。最近NHKの番組で、タレントが地方の街を散歩するのだが、同じような光景で誰も通りを歩いていなかった。自分達が子供の頃、こんなことは経験したことがなかった。人が人と出会い、集まり、すれ違うこと、それが生活することの定義のような考えていたが、今日の地方はそうではないらしい。誰が考えてもそれは寂しい。人は人と寄り添って生きていける。地方に行けば複式学級も珍しくはない。明日は参議院議員の選挙である。当たり前のことが当たり前にできる社会を、ぜひ作っていただきたい。汗をびっしょりかいてスポーツジムから帰ってきて、冷たい水とアイスキャンデーを食べてクーラーの冷たい風に当たると、生きた心地がする。素直にありがたいと感謝する。夏風邪をひいていた時、クーラーの風にあたると寒くてスイッチをオフにした。すると家内が暑すぎると言ってオンにした。自分は寒すぎてオフにした。こんなことを続けていると、多分夫婦喧嘩になるだろう。どこでどう折り合ったのか忘れたが、そのうち夏風邪が治った。今日の自分は、クーラーの冷たい風はなんと気持ちがいいのだろうと思った。当たり前が当たり前に感じる時、それは体で言えば健康である。当たり前に感じない時は、病気なのである。その意味で、地方は恐縮だが病気の状態にあるのかもしれない。新聞に、病む人の暑さも言はぬこと憂う(深沢ふさ江)の句があった。今の季節なら、病床であっても今日は暑いねなどの会話をするだろう。この病人は病気のことが気がかりで、普通の人が交わす会話も言わなかった。作者はそのことが心配だったのである。病人は当たり前の生活ではない生活を送っている。ということは当たり前に生きていけることは素晴らしいことなのだ。スポーツジムは二面がガラス張りで、青空がよく見え外は灼熱であったとしても、その日光がプールの水面を照らしてキラキラと反射している。自分はなんと贅沢なことをしているのだろうかと、ふと思う。今自分は書斎でブログを書いている。自分の生き様を誰に遠慮することもなく表現できることも、ありがたいことなのだ。この後お風呂に入って夕食をいただくことも、楽しみである。当たり前のことだが、その当たり前に過ごせることが、今の自分には極上の生き方である。自分だけでなく誰でも同じだろう。
