経験値

今は火曜日の夕方だが、少し時間が過ぎた。自由業といえども、仕事の内容は常勤の人とあまり変わらない。午前中は学校訪問があって、コメントを送ってほっとした。今日で1学期の学校訪問が終了して、次回は2学期の9月からである。珍しく校長先生も授業を参観して終わった後、校長室で数分間の短い時間だが、感想を述べあった。というより自分がほとんど聞き役で、なるほどなるほどと、相づちを打った。長い間の経験値があるので、授業を見る目は確かなのである。自分は理屈は知っているかもしれないが、実践の技や隠された輝きは見えない。正しくは感じないのであろう。研究室で学生を相手にした研究打ち合わせは数え切れないほど実施したから、10分も話し合えば相手の力量はすぐ分かる。その分かり方は、論文に代表される研究が尺度になっている。その研究をベースにして学生と話し合うのだから、経験値が違うので、大学の研究室の光景とすればごく自然である。ところが今自分がやっている小中学校を訪問して、授業のコメントを書いて送るのは、どこか不自然なのである。今日校長先生が感じた印象や感想や助言などは、まさに的確である。長い間の経験が、教師と子供の織り成す活動の1つ1つを鋭く見抜いている。例えはよくないが、刑事が犯人を追い詰める鋭いまなざしであるとか、職人が伝統工芸の作品を作る技の凄さとか、そのような姿にかぶって見える。なるほどこれがプロなのかと、いつも思う。かつてはそれが自分の嘆きであった。しかし今はニュアンスが若干違う。自分の感想やコメントは、実践の経験値には程遠いが、研究の経験値はあるといってよいだろう。自分は、実践の経験値の上に研究の経験値を重ねれば、もっと素晴らしい実践を生成できるのではないかと思っている。だから自分のコメントは、先生方にとってはどこか違和感があるかもしれないし、ハッとする気づきがあるかもしれない。今日のコメントにも書いたのだが、自分の弱点は、こうした方が良いという改善点を明記しないことである、というより明記できない、少なくとも自信を持って書くことができないのだ。ただ今日も、教頭先生が、教職員の皆さんが先生のコメントを読むことを楽しみにしています、と言われたことが自分の支えになった。文脈は離れるが新聞に、しゃがみては花の声聴く夏の径(一式正明)の句があった。今の時期は、草も花も太陽をいっぱい浴びて伸びている。小さな道にもそんな花が咲いていて、花は何を思っているのだろうかと、しゃがんで花に寄り添ったのかもしれない。花が好きな人は花の声を聴きたいのだ。子供が好きな先生は子供の声を聞きたいのだ。その声をどう聞き分けるかは、長い間の経験が必要である。言葉で表現できない職人芸のような聞き分け方なのかもしれない。その経験がない自分にできることは、実験計画法と統計的検定によって得られた科学的な知見という耳で、聞き分けようとしている。どちらが正しいとか優れているとかは言えない。自分は自分なりの方法で真実に近づいていき、最後は先生方のお役に立ちたいと願っている。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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