今日は土曜日の夕方、いつものようにスポーツジムから帰って来たばかりである。といっても、いつものようにとは少し違う。家内から、スポーツジムに行ってもいいがプールに入らないようにと、念を押されていたのだ。が、この暑さである。スポーツをして汗をびっしりかいたら、青色の透明感の水で満たされているプールを見れば、あの中に入ったらさぞかしさっぱりするだろうという誘惑には勝てない。プールからジャグジーからサウナに至るまで、いつものコース通り水やお湯に浸かった。家内の忠告は無理もない、夏風邪をひいているのである。昼間は灼熱のような日差しに照らされて、家全体の気温が上がっているから、寝る時でもクーラーをかけないと寝付かれないのだ。ここ数日間ゴホンゴホンと言いながら、しかも多少熱っぽい状態とは知りながら、スポーツジムに行ったので、確かに自分の意志は弱い。しかも昨日のイベントで、夏風邪はさらにひどくなった。自分にとっては忘れられない日であった。自分の所属する団体の総会である。昨日の総会を限り、自分は団体代表を辞めて交代することになった。正式には会長から名誉会長になったのだが、そのこと自身には自分は何の感慨もない。年をとるといつでも思うことだが、地位や名誉や役職などいずれ消えてなくなり、何の価値もないのだ。あるのは自分そのものである。自分が多少でも役立つのなら、地位や役職に関係なくオファーが来る。それは組織や地位を評価しているのではなく、自分自身の能力を他人は見積もっているのである。日本と欧米諸国の違いでもよく指摘されるが、今や自分は自己紹介する時、何と言おうかと考えている。〇〇団体の会長ですなど今でもほとんど言ったことはなく、大学名を言うことがほとんどである。しかし今の心境とすれば、大学名自身も自己紹介にはほとんど役に立たない。教育研究家なのか教育評論家なども、どこか違和感がある。教育工学の専門家ですといえば最もぴったりくるが、正確にはフリーターである。この言葉は家内があまり好きでないので、これからは自由業ですと言ってみたい。団体から名誉会長の名刺はもらったが、名誉という意味はもはや現役ではありませんという言葉である。世間ではその方が響きがよいのだが、自由業の方が自分には楽しい響きがある。何でも自由にできるのだという開放感が好きなのだが、世間では収入もほとんどない、かわいそうな職種で、高齢者なら仕方がないかという同情的な業種のようだ。昨日の総会でも、自分と参加者の間ではギャップがあるかもしれない。いずれにしても全ての行事が終わり、段取りもよく最後の懇親会も盛り上がり、自分は開放感に満たされた。ただ会場の外は灼熱地獄、会場は冷えすぎるクーラーのおかげで、自分の夏風邪はますます酷くなった。クーラーの設定温度を高くしろとは言えないらしい。だから昨夜自宅に戻った時は、思わず半ズボンの下着をはいた。それでようやく居心地が良くなった。文脈は離れるが新聞に、萎(な)ゆる足とめれば聞こゆ力あるきんぽうげの声すかんぽのこゑ(近藤きみ子)の句があった。年老いて足が自由に動きにくく、ゆっくりとした足取りで歩いていくと、道端に咲いている花やこれまで気にも留めなかった茎や葉っぱとも心が通い合うような気がするのだろう。作者の野草への優しい気持ちが伝わってくるようで、多分小さな声で声をかけたかもしれない。自分が自由業というカテゴリーには、この作者のような気持ちが反映されているような気がする。これまでとは違った別の時間の流れがある。これまでと違った気づきがあるだろう。そんなふうにして、人はいくつかの区切りを経験して、次の世界をまた歩いていくのだ。それは未知の世界であり、この短歌のように、声なき声を聞き、見えない姿を見て、少しずつ新しい世界を探索するのだろう。
