今は月曜日の午後であり、南向きの書斎の窓から外を見ても、曇り空で雲も見えずただ灰色一色の空模様である。ただ蒸し暑く、窓を開けて外の風を入れながらパソコンの画面に向かっている。この変則的な時間にブログを書くのは、今日の夕方からオンラインの会議が入っており、明日の夕方も市内の学校に出かけて研修会をするので、この時間が最も自由がきくのである。本音を言うと明日の方が都合が良いのだが、というのは今日の朝刊はお休みなので、俳壇や歌壇の欄をチェックできないので、先週の句を調べるしかない。ただそれは多少季節がずれることもあるので、ブログの内容にそわないこともあるからだ。世の中はそんな都合のいいことばかりはないので、どこかで妥協しながらブログを書いている。それは人が生活すること仕事をすることと似ている。どこかで妥協するというか相手の立場も考えながら事を進めなければならないので、仕方がないのである。今日も午前中は学校訪問して授業参観をし、そしてコメントを書いてメールの添付で送った。先生は一生懸命生徒たちに伝えている。生徒たちもそれなりに理解しようと努めている。しかしその間に何らかのギャップが生まれる。どんなに力量のある先生であったとしても、すべての生徒たちに伝わることはまれで、生徒の間にも、理解も満足するレベルもまちまちだろう。だから自分は、先生のスキルを超えた伝わり方、それは多分に非認知的な要因が大きく作用するので、そこにも注目している。生徒たちはそこをきちんと見抜いている。それは驚くべき以心伝心的な見えない世界のやり取りである。多分それが生成AIとの対話の違いだろう。生成AIは大規模言語モデル(LL M)に基づいて対話しているので、言語化されなければ会話が成立しないのだ。少し理屈っぽい話になったが、私たちの日常世界はデジタル技術に囲まれている。デジタル技術はそれまでの道具と違い、中にプログラムが入っているので、入力に対して応答する仕組みになっている。つまり生成AIほどではないにしろ、人の要求に対して対応している。道具は道具なりに人とコミュニケーションしている。ただその間にギャップがある。文脈は離れるが新聞に、火災報知器が終(つい)のちからをふり絞り人のコトバで「電池切れます」(真庭義夫)の句があった。火災報知器とすれば何度も人にそれなりの合図をしていたのだろうが、人の方がそれを忘れてしまった。最後の力を振り絞りとは、擬人化とはいえ、いかにも人間らしい。道具と人の会話はこのようなものだろう。まして人と人との会話は複雑で、授業で繰り返される言葉がどのような影響を及ぼし、言葉にならない非認知がどのような効果をもたらすのか、難しすぎて手におえない。明日の夕方の研修会は非認知の話である。自分は今でも正直に言えば自信がない。それでもいいのだ。この世の中は、すべて分かっている人など、ほとんどいないだろうから。
