気持ち次第

今は火曜日の夕方、書斎の窓から見る空は白い雲ばかりで曇り空である。どこか青空はないかと探してみても見当たらない。夏至に近づいているせいか、昼間の時間が長く、夕方と呼んでいいのか戸惑ってしまう。今日は午前中から都内で仕事があって午後4時頃帰宅したが、家内の話を聞いたりすると、我が家にも小さな波が起きている。私的なことなのでブログには書かないが、この世の中のことは予定通りにはいかない。しかし人が生きていく上では、楽しいことや面白いことばかりではない。そんなことは何度もこのブログに書いて、よく知っている。都内では人と会うので当然ながら色々な話しをするが、仕事上では、よもやま話や雑談というわけにはいかず、それなりの話をするのだが、心のどこかで自分と比較して話に加わっている。やはり自分はまだまだダメだとか思うこともある。多分自己肯定感が低いのだろうと思うが、それは性分かもしれない。半面そう思いながらも、まだ自分の方が上だろうなどと、対抗心が頭を持ちあげることもある。大人になると、いや子供でもそうかもしれないが、自尊心と劣等感、つまり肯定と否定の感情が出てくるのである。多分誰も同じだろう。帰宅して家内と話をする時は、仕事ではなく雑事である。そのようなことでも、煩わしいことや面倒だと思うことも起きる。こんなとき人はどう対応するのだろうか。たぶんどんな偉い人でも難しいのではないかと思う。この前禅の本を読んでいたら、どんな偉いお坊さんでも雑念がおき煩悩に振り回されるようだ。ただそれを捨てる修行をしているらしい。これもまた難しそうだ。どの家庭も同じように自分も帰宅したら、仕事の面白さと愚痴を家内に話し、家内もまた友達付き合いやら病気やらの愚痴を言い、時々趣味の楽しい話をする。そしてふと思う。誰も同じなんだ、偉い人も凡人も大人も子供も喜んだり悲しんだり愚痴を言ったりして、世の中を渡っている。これをうまく切り抜ける妙手はないのかなどと愚考したりする。この前のブログで書いたように、自分は今フリーターでそして夏休みを過ごしていると言い聞かせている。世間ではフリーターと言えば、何かさげすまされるような響きがないわけではないが、受け止め方一つなのだ。家内が隣近所ではフリーターでなく団体役員と言ってもらいたいと、かつて忠告を受けたが、自分はあまりそう思ってはいない。何でもできる自由でいいではないかと思い、夏休みと聞けば何も縛られない開放感に満ち溢れた日々だと思う。人によって受け止め方は様々なのだ。だから自分の都合のいい解釈によって、自分を肯定的にとらえようとしている。それはごまかしかと言われるかもしれないが、世の中に絶対とか客観とか、ほとんどないのではないか。受け止める自分の気持ち次第で、なんとでもなるような気がする。文脈は離れるが新聞に、とりあえず駆け出す初夏の浜辺かな(一瀬利彦)の句があった。状況はよくわからないが、初夏の太陽が注いでいて、白い砂浜がずっと海の波打ち際まで続いているのを見ると、何か理由もなく走って見たくなったのだろうか。それは童心に戻ったのかもしれない。子供の頃夢中で走りまわったことを思い出し、初夏の日差しが背中を後押ししたのか、思わず駆け出したのだ。自分は今夏休みを過ごしているのだと思うと、仕事のことも家庭のことも大したことではなくて、夏休みの一時なのかと思えてくる。まだまだやりたいこともいっぱいあるし、心配事があればそれなりに対応すればなんとかなるし、と思えてくるから不思議だ。禅の修行はわからないが、この世のことは捨ててしまえば問題はないと考えるのか、取るに足らないような小さなことだから気にすることはないと考えるのか分からないが、人は気持ちの持ち方ひとつで、元気にもなれば落ち込むことにもなる。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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