車の免許

今は土曜日の夕方、いつものように書斎でパソコン画面に向かっている。今日はほぼ1日中小雨が降り、お昼頃は少し激しかったが、予定通りスポーツジムに行ってきた。家内が午前に出かけて戻りが遅かったので聞いてみたら、雨がひどくて電車が遅れたという。最近の天候は変化が激しく、体調が崩れる時もある。今日はいつもの通りのことなので、昨日の出来事について少し触れる。午前中は、運転免許のための高齢者講習に行ってきた。この講習では、動体視力検査や車の運転の実地指導などがある。確かに年齢と共に、動体視力も衰えるし、車の運転でも反射神経が鈍ってくるようだ。自分はスポーツジムに通っているせいか、判断力や操作では特に問題はなかった。とりあえずは合格したので、後は通知をもらって警察署で免許証を更新するだけで、3年間は有効になる。講習会では待ち時間があって、その間はビデオを視聴することになっている。興味もなく、机の上にある講習会用のテキストでも読むかと思っていたが、ついビデオに引きずられた。内容は、たいてい、こうしてはいけませんという禁止を促すビデオで、上から押さえつけられているようで嫌だったが、今回のビデオは違っていた。交通事故に遭った家族の気持ちを語った内容だった。奥さんと2歳ぐらいの娘さんの2人が、車ではねられて亡くなった。そのご主人の語りであった。容易に想像できるように、幸せの絶頂から、絶望としか言いようのない悲惨な境遇に落とされた。どうもがいても、奥さんと娘さんは戻ってはこない。そのことを、何度も何度も行きつ戻りつしながら、ようやくあれはやはり事実なのだ、という当たり前のことが認知できるようになった。その事故を起こした人は高齢者であった。この高齢者は別にお酒を飲んでいたわけでもなく、特に気を抜いていたわけでもなく、ごく普通の状態でありながら、ブレーキとアクセルを踏み間違えたことが原因であった。ふと自分を振り返ってみた。車の運転でなければ、そんなことは頻繁に経験している。この前もメールで会議の約束をして、どうもつじつまが合わないと思っていたら、自分の方が6月と7月を間違えていた。それは全く違和感がなかったのだ。後で気づいて、ふと怖いと我ながら思った。そのような勘違いが大変な事故を起こすとすれば、高齢者は真面目に考えなければならない。仮りに赤信号を見て、それを青信号の意味と勘違いしたら、大事故になる。それは認知レベルであるが、脳が手足に指示を出すのは行動レベルである。行動レベルの動作が遅かったら、逆の動作をしたらなどと考えれば、交通事故を起こす。ニュースで報じられるように、最近では特に高齢者の運転事故が多発している。日常生活ではそのような勘違いもよくある。だから自分も3年間は免許が継続されるが、少し考えてみようと思った。自分の住んでいる地域や駅からの距離など考えると、車はほとんど不要なのだ。維持費を考えればタクシーを使う方がよほど経済的である。それよりも危ない橋を渡りながら生活しているようなもので、1歩間違えたら大変なことになる。もし通学している子供に怪我をさせたら、自分の人生はこれで終わりになる。待ち時間のビデオが、そのことを自分に教えてくれた。文脈は離れるが新聞に、譲りてもぶれずに生きむ花辛夷(こぶし)(川高郷乃助)の句があった。車の免許を返上しても、あるいは持っていたとしても、事故を起こさない気持ちを大切にするなら、車は運転しないと決意すれば良いことである。車の免許も仕事も、ある時期で他に渡すことも大切なのだ。そんなことを思いながら、まだ決意できずにいる。しかし近い内に廃車しようと思う。それは他人を決して不幸にしないという自分への戒めなのである。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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