今は土曜日の夕方、書斎の窓から見る空は青く、しかも西日に照らされてまるで輝いているかのような明るい空である。いつものようにスポーツジムから帰って、グレープフルーツを美味しくいただいて、2階の書斎に登ってきた。スポーツジムに行く時、天気予報では一時小雨が降るとスマホに書かれていたので、傘を持って行こうかと家内に言ったら、スポーツリュックの中に折り畳み傘が入っているのでそれで充分だよと言われて、まるで子どものように素直に聞いて出かけた。ジムでは、いつものメニューに従って、最後は2階の屋外にあるお湯のジャグジーに浸かるのだが、今日は小雨ではなくそれなりの雨が降っていて、体は暖かいが頭や顔は雨で濡れた。頭を冷やし足を温めることは健康に良いという言い伝えを思い出し、ネットで調べたら頭寒足熱と言うらしい。なるほどこれも粋なものだと喜んでいたが、周りを見たら誰一人もいない。屋外と屋内を仕切る窓ガラスからプールやサウナの方を見ると、それなりの運動をしているので、多分年寄りの冷や水だろうと思っていたのかもしれない。そのジャグジーから上がって15分はかからないと思うが、すべてを着替えてスポーツジムから表に出た。自分の格好は、スポーツリュックを背負い練習用ゴルフバッグを肩に担いでいるので、あの小さな折り畳み傘では濡れるだろうと覚悟して、リュックから折り畳み傘を取り出した。ジムのドアから表通りまではビルの中の通路になっていて、10mほどの先にビルの入り口が見える。その入り口は半円形でその空間だけ輝いていた。自分は我が目を疑った。確かによく見ると傘をささない人が通っている。道路が眩しいような明るさで、車も往来していた。折り畳み傘を手に持ったまま外に出てみると、道路は先ほどまで雨が降っていた痕跡を残して、太陽の光を反射して、まさに輝いていたという形容がふさわしかった。あの15分の間に、雨が止み太陽がさんさんと照らしたのか、その急激な変化に驚いた。なるほど自然とはこういうものなのかと思ったが、どこか自分の気持ちはワクワクした。確かに大きな傘を持って来なくてよかった、家内の言う通りだ、素直に聞けばよいのだと、この時は思った。人は学校で勉強して、それなりの知識を身につける。天気予報で、その時間は雨が降るとスマホで読めば、それは証拠なのでその情報に従って、大抵の人は行動をする。それは間違いではない。天気予報は、スーパーコンピューターで計算をして報道しているはずだから、その原因と結果の因果関係はまさに科学であり、家内の言うことよりも正しいはずである。話は飛躍するが、小学校の音楽の時間で、先生は子供たちにカントリーロードの歌を何回も何回も歌わせていた。参観していた自分は、そのうちに田園風景が広がって、その中に真っ直ぐな道があって、その道を歩いていって、なぜかわからないが心が穏やかになって、人に優しくしようという気持ちになったことを思い出した。それは原因と結果の因果関係でもなく、論理的な思考でもなく、子供たちが何回も歌う歌声を聞くだけで、自分の心の中に入ってきたのである。この小学校の先生は、子供たちに、分析するのではなく、すべてを受け入れることで、その世界を知ることを伝えたかったのかもしれない。世の中には、分析でもなく因果関係でもなく、ただ受け入れることだけで世界を理解する方法がある。多分家内は直感で自分にそう言ったのだろうと思うが、確かにその通りだった。新聞に、しばらくは検索せずに<ふしぎ>って気持ちを抱いたまま暮らしたい(関根裕治)の句があった。どんな現象かは分からないが、これは不思議だと思ったのだろう、検索すればそれが何か、どういう原因かも知ることができるだろう。しかしその現象が不思議だという全てを受け止めて、何も分析をしないで味わいたいと思ったのだろうか。確かにカントリーロードを何回も繰り返して歌えば、何も検索しなくても、この歌のメッセージを受け止めることができる。それは分析してわかったという認知レベルよりも、より深い理解の仕方なのかもしれない。
