今日は土曜日の夕方、いつものようにスポーツジムに行って帰宅して、一息ついてパソコンの画面に向かっている。土曜日は誰でもそうであるように、週末ということで気持ちがリラックスできる曜日であり、特に夕方は開放感で満ちている。つまり気分の良い時にブログを書こうとする思惑がある。といってもそんなに面白いことばかりあるわけではなく、仕事上では少し気が重い場合もある。人が生きていくことは、そのような事の連続である。そんなことは誰でも経験している。老夫婦2人だけの生活なので、時々そんな話を居間でする。家内は若い時から仕事らしいことはしたことがないが、ビーズだの裁縫だのスポーツジムだの、自分から見ればほぼ趣味の世界に生きている。ただありがたいことに、食事の支度やら洗濯やらやってくれるので、お互いに持ちつ持たれつなのだろう。趣味の世界でもいろんな人間関係もあり、自分もまだ仕事があるので多少気がかりなこともある。人は口に出しただけで、どこか開放されるようで、なるほど江戸の昔から井戸端会議で、近所の噂話やら夫婦喧嘩の憂さ晴らしやら、口に出しながら助け合っていた。と思うのは自分の想像であり、多分テレビ番組などの影響だろう。長屋に住む庶民は、そうやって春夏秋冬を生きてきたのか。貧乏であってもなんとか生活できることを感謝して、近所付き合いをしていたのかもしれない。これも落語の影響か、なんとなくそんな感じがする。自分たちも現代版の庶民だろう。長屋には住んでいないが、家内からいろんな情報を聞くと、話の内容は落語に出てくる八っさん熊さんご隠居さんおかみさんの会話とあまり変わらないだろう。我々老夫婦はご隠居さんおかみさんとは少し違うが、似たようなものだろう。子や孫のことで心配したり喜んでみたり、お米が高くて困ったとか、また旅行に行きたいとか、トランプ大統領はけしからんとか、熊谷では気温が29度だとか、たわいもない話なのである。こんな風にして庶民は毎日を生きているようだ。ブログを書くので1階の居間から2階に上がる時に、家内が蕗(ふき)を剥いていた。蕗などはどこでもある野草のようなものだが、我が家の庭から取ってきて今晩のおかずにするのだという。自分は蕗のあの苦味が大好きで、ビールやワインのつまみによく合う。グリーンピースの混ぜご飯に鳥の唐揚げと蕗だというから、贅沢ではないが自分の好みの夕食である。苦味と言えば、蕗のとうの天ぷら、6月ごろになると鮎の塩焼きなどは絶品である。苦味がなければ平凡で大した美味しい食材ではない。そういえば蕎麦にはワサビが必須で、なければ間の抜けた味になる。蕎麦だけでなく、お寿司もそうであった。ということは、これは日本人の味覚なのだろうか。脇役で主役が輝くということか。とすれば苦みは旨さの立役者なのだろう。そんなことを考えていたら、新聞に掲載された、「たらの芽の天ぷらのほのかな苦み 人生もまたほどほど苦い」(佐藤綾子)の句が目についた。確かにこの句の通りで、ほどほど苦いことがありがたいのだ。苦さ一辺倒では生きていくのが辛いが、ほどほどであれば何とか乗り越えられる、というよりその苦さがあるので、生きていく喜びがあるのかもしれない。ふと仕事のことを振り返ってみたら、それは苦味ではなくて、それがあるから喜びが増すような気がする。つまり人生の脇役なのだが、実はそれは立派な人生の立役者なのだろう。
