今は火曜日の昼間、書斎の窓から見る空の景色はまるで初夏のようで、雲の名前は知らないが大きな雲が静かに西の空から東の方向に動いている。この頃は寒暖の差が激しく、昨日は1日中小雨が降って肌寒く感じたが、今日は風は少しあるが、からっとした晴天で、書斎で仕事をするのがもったいないような天気である。この変則的な時間にブログを書くのは、急に夕方研究会があって出かけなければならないからである。大学を訪問するのだが、予定にはなかったが諸々の事情で、あと数時間後に出かけることになった。だから今日のブログは短く書いて責を果たそうと思う。ブログを書くのは自由なのだが、もう5年も続けていると、勝手に止めるわけにもいかずまた愛着もあるので、今日も書いておきたい。といっても今日はまだ午前中しか経っておらず、昨日もオンラインが3つあってそれなりに忙しかったが、日常的な会議であった。考えてみれば、そんなに他人に書いて見せるほどの出来事は起きるはずもない。それでいいのだ。自分はこの頃思うのは、平凡であることの幸せである。平凡とは、楽しいこともあるかもしれないが気に入らないこともあり、ほどほどに物事を処理している状態だろう。だから特に贅沢したいとか何か手に入れたいとか、今の自分にはほとんどない。今日はこれから研究会に出かけて帰ってくるので、少し遅い夕食をいただいて、テレビでも見てベッドに入る。テレビと言っても、そんなに面白い番組があるわけでもなく、これも半分習慣として見ているのだろう。それでも見ていると脳にインプットされて、生成AIのようにテレビと会話ができるような気がする。新聞の短歌を読んで、思わず吹き出した。吉原のことばが耳に残りんす春の花屋に咲くヒヤシンス(高見井高志)。いうまでもなくNHKの大河ドラマ「べらぼう」での会話を下敷きにしているが、言葉の遊びとしてはよくできた短歌である。ここまで素直に表現されると、理屈抜きに拍手を贈りたくなる。自分もはじめは、この大河ドラマで交わされる江戸の言葉がよく分からず、読み取れず、NHKも吉原の花魁をテーマにするとはと、半分冷ややかに見ていた。ところが習慣とは恐ろしいもので、それがだんだん違和感がなくなって、日曜日の夜はこの番組を欠かさず見るようになった。自分のブログと同じである。火曜日と土曜日になれば頭も体もそのつもりになって、パソコンの画面に向かう。そのつもりになることが大切で、多分ブログのエンジンなのだろう。そのエンジンの下で自分の脳も手も働くのだ。学校には時間割がある。この時間になるとこの教科の授業がある、それが習慣化されて違和感がなくなり、授業に出ることが当然になる。だから不登校の子供たちは、その習慣化された出来事に対して、おかしいのではないかと違和感を持っているのかもしれない。それはすごいことなのだ。それまでは当たり前なこと当然のことと思っていたことが、ひっくり返されると、人は右往左往してしまう。トランプ関税について前回のブログで批判したが、考えてみればこれまでの常識に対する反論とも言える。ただそれがトランプ流という我々にとっては納得しがたい反撃なので、反発しているのだろう。自分には、やはりこれまでの常識と習慣に従った平凡な生活がよい。
