今は火曜日の夕方、いつものように書斎の南側の窓から見ると、青空にぽっかりと雲が浮かんで春らしい景色が広がっている。今日は本当に暖かく春の息吹に包まれて、心がウキウキしてくる。先ほど月一度の床屋から帰って来たばかりで頭髪がさっぱりして、風が首元に当たっても、どこかふんわりとした感じだった。今日午前中は地元の中学校の入学式で、評議員をしている関係上参列した。卒業式は、所属団体の理事会と重なったので欠席したが、今日は出席できた。桜は満開で、子供と保護者の2人連れで登校している風景に出くわした。それは入学式らしい光景で、中学1年生と言ってもまだ幼い表情があって、どこか誇らしげな顔をした着飾った母親と、何組もすれ違った。卒業式や入学式、学校はなんと思い出に残るセレモニーを行っているのだろう。誰もが感慨がある。紅白の垂れ幕も市長の挨拶もそして在校生と新入生の挨拶も、自分が子供の頃と変わっていない。ただ新入生の挨拶は少し違った。満開の桜の下で入学できる喜びを、と定型の言葉と一味違って、この生徒は自分の言葉で話しているのだろう、何かスッキリと思ったことを率直に、そして短く挨拶を終えた。一言で言えば、それは堂々としていた。あまり周囲にも気遣いしていないと感じた。自分の胸にもストンと入ってきた。何故かわからないが、土日に出かけた観光の景色が浮かんできた。土曜日は桜の花見であったが、日曜日の午前中は蔵王エコーラインというらしいが、11mを超す雪の両壁の間を往復2キロの距離を歩いた。山岳ガイドの説明を聞きながら、雪の大壁を見上げると、どこか堂々としていて圧倒されたのだ。団体貸切バスだけ、しかも5日間だけ、その道を通れると聞いた。その初日だったのでテレビカメラも回っていたようで、今でもその光景が目に浮かぶ。ふと思う、新入生が、校長先生や市長や来賓に遠慮することなく堂々と、これからの希望を語ったことが、どこか蔵王の雪の大壁の存在感に似ていたかもしれない。大人や年をとると、周囲に自分を合わせるので、なかなか堂々とはできないことが多いのだ。だから自分は新鮮な印象を持ったのだろう。文脈は離れるが新聞に、サクサクとスマホ片手に町歩く孫との旅は無駄が足りない(杉村恭子)の句があった。現代っ子の孫は、スマホのアプリで寄り道をすることも道草をすることもなく、目的地にスタスタと歩いていくのだろう、それが年寄りにはどこか味気なく、もう少し木とか花とか人とか家だとか、見ながら行けば情緒もあるだろうにと感じたのだろう。その気持ちは自分にもよくわかる。スマホは確かに便利だが、直線的である。年を取ってくると、直線的でない部分にむしろ愛着を感じる時がある。半面、入学式の新入生の挨拶のように、大雪を切り取って大壁を作ったように、無駄のない一直線の姿も、またすがすがしい思いがする。そのどちらが良いかは自分には分からない。多分そのどちらも人の世には必要なことなのだろう。
