今は火曜日の夕方、いつものようなブログの書き出しで、お許しいただきたい。書斎の南向きの窓から、いつものように空を見ている。雲は多いが青空が見えると、ほっとする。今日は朝から対面の会議で出かけ、色々な人と出会い、帰宅してメールを見て返信を書いたり、先ほどオンラインでの打ち合わせが終わったばかりである。打ち合わせの相手は、ある企業の経営者だが、短い時間ながら学ぶことが多かった。経営者とはなんと努力をし、それでいながら謙虚に話をされるのだろうか、いつも感心する。並大抵の努力ではないようで、先ほどの方は自分から見れば、学者であり企業の経営者であり、二つの才能を持った優れた人物のように思う。確かに長い付き合いなので、業績が上がって勢いがある時期もあれば、経営が苦しくなって、もがいている時期もあったことを知っている。自分のようなものは、浮き沈みといっても小さな波でしかすぎず、企業と比べれば横綱と序二段くらいの差がある。ある本で読んだことがあるが、経営者でなくて従業員だったらどんなに楽だろうかと、夜中に眠れなくて悶々と悩む人も多い。お風呂上りに5分程度で読む小説では、その従業員の苦しさが書かれているので、企業で働く人は、誰も努力に努力を重ね、苦労に苦労を背負いながら、たまの休みに一息つくようだ。先ほどの経営者は、ようやく谷を抜けて、業績も伸び先が見えてきた時で、自分のようなものに一つの区切りとしての挨拶をされたのである。教育に関わる者は、そのような苦労をしないのではないだろうか。この言葉は語弊があることを承知で書いているのだが、たぶんそうだろう。自分を振り返ってみれば、大した能力もないのに、あまり苦労もしないのに、とりあえず生活をしていることは、教育の分野のおかげなのかもしれない。世の中はどこか不公平なところがあって、人はそれを運と呼ぶのかもしれないが、あまり信じたくはないが、そんなところが確かにある。ただ天や神から見れば、運とか不公平さとかではなく、どこかで辻褄が合っているのかもしれない。だから今日の経営者は、表情は明るく未来を切り開こうという意欲に満ちていた。それは苦労を幸せの土台にしているような気もする。何が幸せなのか自分もわからない。文脈は離れるが新聞に、「今日はこれね」選んだ小さなブローチをデイケアに行く夫の胸に(高畔正子)の句があった。文脈から考えると、ご主人は少し認知症なのかもしれない。毎日デイケアに行って時をすごすのだが、まるで幼稚園生か小学生のように、奥さんにブローチを付けてもらって、少し恥ずかしそうで、そして少し嬉しそうな表情が眼に浮かぶ。苦労に苦労を重ねて、晩年になってデイケアに行くのか、それがこの人の人生なのかと思うと、他人のことながら不公平ではないかと思った。しかし本当にそうだろうか、ご主人は奥さんの愛情に包まれて、デイケアでもブローチを見れば、奥さんに見守られていると感じるならば、それは幸せと呼ぶにふさわしい。本当に何が幸せかは、本人に聞いてみなければわからない。
