常識

今日は土曜日、そして今はその夕方、南側の窓から見る景色は寒々としていて、空がグレイ一色である。寒々としているというより、寒いのだ。真冬に戻ったかのように、先ほどスポーツジムから帰る途中、小雨が降っていて傘をさしながら帰宅したが、道行く人も心なしか背中が曲がっているように見えた。3月は、春とは言えまだほど遠く、春と冬を行ったり来たりしながら、下旬になってようやく暖かい日が続くのだろう。その頃になれば、桜も咲き始めどことなく華やぎ、人々も笑顔の表情を見せるようになる。天気予報によれば、明日日曜日はもっと寒く、一日中雨が降るらしい。人はまことに自分勝手で、晴天が続けば雨よ降れと願い、雨が続けば抜けるような青空が恋しくなる。今日は寒かったせいか、スポーツジムも人が少なかったような気がする。おかげでプールなどはゆっくり泳げるのでありがたいのだが、どことなくけだるいような、気持ちがどこかに浮かんでいるような、時の流れに身を任せているだけのような、そんな時間の過ごし方だった。1週間を振り返ってみても、忙しくはあっても、仕事をしながらもう一人の自分がそれを眺めている、そんな感じだった。昨日は都内でイベントがあった。自分の所属する団体の主催なので、団体の代表とすれば、ここ大一番である。緊張したり、気をもんだり、不安になったり、充分準備をしたり、そして本番を迎えるのが普通であろう。自分は決して気を抜いたり緊張を欠いて臨んだわけではなく、主催者としての挨拶も、表彰状を渡すときの臨機応変の対応も、それなりにできた、談笑しながら満面の笑顔で大勢の人と名刺交換をし、盛会裏にイベントが終わったので、自分とすれば上出来だろうと充実感も感じるはずであるが、本音を言えば自分はそうではなかった。多分最も喜びを噛みしめたのは、担当したスタッフであろう。自分はその用意された舞台の上に乗っただけである。なぜだろうか。その気持ちは、小雨が降って冬が舞い戻ったような今日の天気のようであり、体も動かし、午前中はやるべき仕事もして、何が不満なのか、何が不足なのか、自分に問うても答えは出てこない。文脈は離れるが新聞に、寄せ鍋はフライパンですワンルーム(滝村実)の句があった。ワンルームマンションで生活しているのだから、多分若者だろう。自炊しているのか、寄せ鍋を作ろうと思ったが、鍋に野菜やら肉やら魚やら入れても、一人で食べるには鍋は大きすぎると思ったのか、底の浅いフライパンで充分だと考えたのか、鍋という常識を捨ててフライパンで料理をしている。なるほど若者らしい。多分美味しい美味しいと言いながら、料理を満喫しただろう。今度は友達でも呼んで、フライパンの寄せ鍋をしようかなどと考えているかも知れない。若い時は、意識はしなくても常識という知識を超えて、チャレンジをしているのだ。歳をとってくると、常識が幅を利かせ、他人を忖度し、成功しても、どこか落ち度はないのか、課題はなかったかなどの反省をするようになる。本当はこの若者のように、これまでのやり方など捨てればよいのだ。そうもいかないのが大人や年寄りだとすれば、果たしてこれまでに蓄積してきた知識は何だろうか、何か良いことがあるのか、世の中に役立つことがあるのだろうか。自分も若い頃は、この若者のように新しいやり方に喜びを感じ、年配者の話などは疎んじていた。それは自分が特別ではなく、誰も通る道なのかもしれない。すると自分も人並みに平凡な道を歩んでいるのか、ただ若者のやり方を説教するような年寄りにはなりたくない。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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