今は火曜日の朝、この変則的な時刻にブログを書くのは事情がある。今日も夕方時間がなく、昨日も全く時間がなく明日も同じである。この朝食をとる前の時間を利用するしかないのだが、時間が少ないので、今日のブログは短い文章でしかも推敲なしでお許しいただく。今日は都内で理事会があり、帰宅してすぐオンラインが2つ待っている。すべて重要な打ち合わせや会議で、気が抜けない。昨日も1日中バタバタして終わった。何をそんなにアクセスしているのだと、多分他人は思うかもしれないが、自分の生活は、決まった時間に職場に行き決まった時間に帰宅する常勤の勤め人とは違い、いわばフリーターのようなもので、オファーに従って動いている。だから忙しい日もあれば全く暇な日もある。特に4月からは手帳が真っ白で、中旬以降はそれなりにまだら模様のペンの文字跡が見えるが、初旬はほぼ何もない。今週いや3月末までは全て詰まっているので、時間のやりくりが難しい。こうして自分の1年間の活動が終わっていく。教育関係の仕事は、4月に始まり3月に終わる。学校の先生であれば4月は忙しいが、自分たちのような人種は、いわば先生を支える仕事なので活動は変則的なのだ。それでも持って生まれた性格なのか時間の貧乏性なのか、ぼーっとした時間は、魚の小骨が胃の中に入ったような違和感を感じて、きれいに消化しないと安心感がないのだ。このブログでも書いたことがあるが、高校教師の時、毎日よく走ってるねと半分皮肉られたことがある。現実に廊下を走って移動していたからである。廊下を走るなとは誰も知っている校則だが、どこか自分は例外だと思っていたフシがある。この年になっても、走っていると嬉しがっているのは、もう卒業しなければいけないだろう。そんな自分でもいろんな出来事に遭遇すると、人並みに人間の知恵を学ぶことがある。ブログでは書けないが、今年度は、自分の深いレベルでの考え方や感じ方を変えるような経験をいくつかした。それはメンタルモデルといってもよく、無意識的な見方考え方と言ってもよい。今思えば、それはありがたいとしか表現できない。こんなふうに書くと、どこか格好つけていると思われるかもしれないが、そうではない。長く生きていると、いくつか竹のような節目があって、違った伸び方をするのではないかと思う。その時は大変だとかもう無理だとか投げ出したいとか思うこともあるが、それは目先のことである。時間が経つと、その本質が見えてきて、ああそうなのか自分はこういう人間だったのかと、自分を知るようになる。すると新しい自分の見方が生まれてきて、世界が違って見えてくる。文脈は少し離れるが新聞に、日向ぼこ短気の父の遺品われ(高橋まさお)の句があった。この句の作者は、せっかちな父親の遺伝子を引き継いで、日向ぼこのようなぼーっとしている時間は耐えられないのだろう。まるで自分のことを言っているような句であった。そうかもしれない、世の中の生き方は人それぞれである。それぞれの生き方を認めることは、自分を知ることである。3月の年度終わりの時期になって、この忙しい時間にふと感慨に浸った。来年度が良い年になるよう、お祈りするしかない。
