老いてゆく

今は火曜日の夕方、いつものようにブログを書く時刻になった。そしていつものようによく晴れた冬空に西日が沈みかけていて、白い雲がほのかに茜色に染まって、1日の終わりが近づいていることを告げている。今日という日はどんな日だったのだろうと、振り返ってみる。午前中は忙しく仕事をしたが、午後は仕事はなく私的な用事で時間が経って、先ほどまで4月以降に向けての準備しておきたい資料を作っていた。つまり今日は午後は、時間的余裕があって平穏で心が空っぽのような状態だった。これはいいな、こんな気持ちで毎日を過ごせれば平和だななどと、思っていた。この前のブログで書いたように、土日は大阪のイベントに参加して、予想通りに進行して、忙しい中にも豊かでいくつか感動する場面もあった。自分は、閉会の挨拶を述べるだけの役割だったが、体全体で感じる充実感があった。予定した串カツとビールの夕食で、さらにいかにも大阪らしいキザミうどんも食べて、一夜だけの大阪下町の庶民になった。広いホテルの部屋にも朝食にも満足し、新幹線の中では880ページもある分厚い専門書に喰らいついて、まだ序文と数章だけだが、深い思索に触れることができた。つまり自分を全て出し切って、土日を駆け抜けたような気がする。それと比べれば今日の1日はゆったりとして、休みのような感覚ですらした。昨日の月曜日は仕事が詰まっていて忙しかったので、今日が土日の代休のような気がしたのかもしれない。年を取ってきたので、家内に言われて、週1回は整骨院に行って体のメインテナンスをしているが、今日の午後はその時間でもあった。といっても整骨院は歩いて数分の距離で、約30分位の整体なので気休めのようなものなのだが、電気マッサージを受けている間、気持ちよく眠った。自宅に戻るにはあまりにも近いので少し遠回りをしたのだが、何事もなく道行く人もマフラーで首や顔を覆って、寒さをよけながら歩いていた。日本海側などの大雪で苦難にさらされている人達に比べれば、誠になんの苦労もない地域の人々なのである。文脈は離れるが新聞に、道の端に椿ひとつの朽ちており午後をすすめば午後のしずけさ(鈴木えみ子)の句があった。自分が接骨院から帰る光景を詠んだのか、と思うような句である。午後は人通りも少なく、静かに誰もが通り過ぎてゆく。その様を、椿が落ちてもの寂しさを感じる心模様を31文字で表現したことは、文才豊かな人なのだろう。文学の素人である自分でも、作者の気持ちは伝わってくる。この数日間の出来事を振り返って、今日の午後は、穏やかで平和でゆったりとした心境で過ごした。それは寂しさではなく、椿が落ちるように自然の姿であって、老いていく自分を認めていることの穏やかさだと思う。午後何回か、2階の書斎から1階の居間に降りて、家内と短い雑談をした。今日の夕食は何か、スーパーに買い物に行くのか、物忘れをするのはやはり年のせいかなど、お互いに年を取ったのだ。共に助け合って生きていくしかないのだ。それが老いていく自然の姿である。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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