今は日曜日の朝、書斎の窓から見える空は小雨が降っており、しっとりとした一日が始まる。日曜日の朝という変則的な時間にブログを書くのは、もちろん事情があったからで、昨日の夕方に書こうと思ったが、都内でイベントがあり、書く時間がなかったからである。昨日の午前中に早めに書いておこうとも思ったのだが、いろいろな仕事が重なって、とても無理だった。たぶん初めてだろうと思うが、日曜日の朝もなかなか味わいがある。天気予報では雪かもしれないと報道していたが、所沢では多少ちらついてるような気もするが、小雨である。窓から見える隣の家の屋根の瓦が雨にぬれて、落ち着きのある風情になっている。こんな光景を見るのは久しぶりだと思う。昨日の都内のイベントは、優れた先生方の実践研究の発表があって、自分はその審査員を務めた。自分にとっては初めての会だったが、実践と研究が見事に連携した発表で、自分も大きな刺激を受けた。このブログで何度も書いているが、理論と実践の往還とか実践をベースにした新しい知の創造など、言葉は美しいが実際のところはどうなんだろうかと思っていたら、昨日の研究発表はその通りであった。自分が求めていることを、そのまま見せてくれたような印象だった。だから審査するというより、お世辞抜きで自分が勉強させてもらった。発表の部屋の横にあるスペースで、4人の審査員が話し合っていくつかの賞を決めた。6名の発表者の内容を採点して賞状を渡し、その後審査員が講評をすることになっている。企画書によれば、3名の審査員の先生方が2名ずつ講評をして、最後に自分が全体の総括をすることになっていた。審査をしている時に、それぞれの発表の特徴や評価のポイントなどを打ち合わせしたので、自分は6名全員の特徴を話せばよいと思っていた。自分の審査メモには、それぞれの発表者のキーワードを書いていたので、これで安心と思って審査会場に入って、3名の審査員の講評を聞いた。なるほどと思いながら、審査員によって審査の観点が違うので、別のポイントを話せば良いと思っていた。3人目の審査員の講評を聞いていた時、ふと気がついた。これでは発表者の先生も参加してる皆さんも、重複して聞くことになる。つまり全体を総括することにはなっていない、というきわめて当たり前の事に気がついたのだ。なんと自分は勘違いしていたのだろうと悔やんだ。もうあと3分しかないと思った時、ふと全体を総括するようなキーワードが4つ浮かんだ。それは研究発表者それぞれのコメントではなく、全体を俯瞰したキーワードであった。ギリギリになって自分は恥をかかなくて済んだと思うと同時に、これで自分の役割は果たせたのだと、安堵したのである。自分はここで大切なことを学んだ。計画はしてもその通りにはならない、5分前まで決めていたことも、状況によって変わってしまうのだ。つまり人は変わる、そのことを自分は変わらないと思い込んでいた。体も元気でまだ色々な仕事をしていると、若い頃と変わらないと思っていたが、それは間違いではなかったのかと気づいたのである。少しずつ変わっているのである。だから自分の思い通りにならないことが起きて、自己肯定感が下がるのではないかと思った。文脈は離れるが新聞に、家事だけで一日終わる独居老最後は眠る難業が待つ(児玉孝男)の句があった。作者は年老いて一人で暮らしておられるようで、寝付かれないのかぐっすり寝られないのか、あるいは、いかに往生するかを思案されているようだ。自分も終活はすでに家内と相談して書類などもすべて作成し、子供たちにも了解してもらい、公の手続きも済ませてある。ただ今思うのは、それはあくまでも計画であり、往生する寸前まで分からないのではないか。大きな計画はできても、実際には何が起きるか分からず、人の考えも感情も変わっていき、誰も予測はできないだろう。ただ今思うことは、変わっていく自分を認めることの大切さである。
