今は火曜日の夕方、書斎の窓から見える南側の空は、うす曇で日の沈む西南方向の空が薄明りとなって、いつも見える光景と変わらない。今日は一日何をしたんだろうかなどと考えなくても、やったことはわかっているけれど、なぜなんだろう、なんとなくブログに書く気力が弱くなっている。それなりの仕事をし、それなりの用事をこなしという平凡な一日なので、そのような平凡な暮らしを公開するのはやはり気が引ける。正直に言えば、今の気持ちは、ぼーっと書斎の窓から外を眺めて静かな時間を過ごしていたい。多分誰でもそんな時はあるだろう。いつもいつも元気でといえば、小さな子供やエネルギーの余ってる中高生などはその通りだが、年老いてくるとそういうわけにもいかない。ここ数日に起きたことは、自分とすればかなり振幅が大きかった。大きかろうと小さかろうと、人が生きていればその波に乗っかって前に舟を漕ぎ出さなければならない。そういえば今日はほとんど運動していなかった、体を動かせば、エネルギーが体内から放出されてアクティブに動けるのだが、何もしない日は、エネルギーは体内に沈殿してしまうのだろうか。そんな物憂い感じの夕方である。明日は何があるか、手帳を見ればそれなりのことが記入されているので、何をするかはわかっている。問題はその密度や深さなのだろう。元気な時は楽しく取り組み、そうでない時はその程度に応じた質になる。今日の午前中の学校で見た授業光景は、そんな感じだった。授業の質とはどのように決まるのか、申し分のない1時間の授業で、子供たちも一生懸命取り組んでいても、質の深さは別の次元のような気がする。それは授業だけでなく人の生活の場面でも同じだろう。それを測る尺度を、充実感とか達成感などと言ってもよいが、自分にはエンゲージメントの呼び方がぴったりくる。このブログで授業について書くつもりはないので止めておくが、人の生活も楽しむ必要がある。楽しむためには、その生活そのものに入り込む、つまりエンゲージすることだろうが、年齢によっても環境によっても月日によっても時間によっても当然ながら変わるので、いつもいつも元気というわけにはいかないのだ。ということは、生活場面でも授業場面でも波がある方が自然である。文脈は離れるが新聞に、生きてれば息も白いし目も黒い(今泉準一)の句があった。それはその通りだ、死んでしまえば息も吐かず目もつぶったままだから、白くも黒くもない、生きていれば白かったり黒かったり、怒ったり喜んだり、自信を無くしたり偉そうになったり、さまざまな変化が起きるのだ。人は嬉しいことだけ楽しいことだけを求めつつも、それは生きている限り無理である。さまざまな変化の中で生きているのだが、それでも嫌なことは避けて好きなことだけやっていたいと思うのが、これもまた人間の自然な感情である。無理だと分かっていてもそう思うのは、理性では分からない。
