言い聞かせる

今は土曜日の夕方、というより夜に近くなったが、ブログを書き始める時間がだいぶ遅くなってしまった。今日はスポーツジムにも行けず、イベントがあったので、それにほとんどの時間を割いた。イベントの内容を書きたいが、今日は少し複雑な心境なので止めておく。その心境を説明するのも時間がかかるので、ぼうっとした短いブログになるがお許しいただきたい。イベントは華やかなもので、表彰式なのだが、そこで挨拶のようなコメントのような話をして会は滞りなく終わった。しかし一方ブログには書かないが、自分にとっては面白くない困ったことが数日前に起きた。こんな時人は右往左往したりどうしようかと迷ったり落ち込んだりするのが常であるが、最近はもうしょうがないと思っている。つまり腹をくくるのである。そうすれば対応することができる。今日も30分程前に帰宅したばかりだが、着替える暇もなく電話やらメールやらでその厄介な処置に取りかかった。人はこのような時なるべく避けたいと思うが、そうすればするほど苦しくなる。このブログも今日は勘弁してもらうかとも思ったが、逃げれば逃げるほど、後悔する。だから短くてもいいから、書いておこうと思った。しかしふと思う。この世の中は、嬉しいことが起きれば困ったことも起きる。ずっと嬉しいことばかりという人生は、世界中探しても誰もいないだろう。ならば困ったことが起きたら、誰も同じだからと思って、逃げないで対応する方が自然だ。今日は、一応処置がきたのでなんとかなるだろう。人は華やかなイベントのような場に出ると有頂天になって、自分が偉いように錯覚したりするが、この世の中はよくできていて、まるで子供を母親が叱るように、意のままにならない事が起きて落ち込むのである。いつもブログで書くように、その山と谷の繰り返しの中で、なんとか頑張っているのだ。しかし困った時自分はダメだと思うのは、相対的に他人を評価することであり、つまり他人の良さが見えてくるのだ。自分が偉そうにしている時は、他人の偉さや優れた点は見えず、自分がつまらぬ人間に思えた時、他人の良さが初めて見える。文脈は離れるが新聞に、障害の父をどこかで疎(うと)んじてた少年のわれ老いて悔やみぬ(若槻豊彦)の句があった。自分は父親を尊敬していたが、それは自分がたどり着けないような気がしていたからだが、今になってもその想いは変わらず、困ったときになると父親の言葉を思いだして、また頑張ろうと思っている。だからこの作者の境遇と逆なのだが、自分が老いてできなくなることが多くなると、若い頃の未熟な自分を思い出し、悔やむことになるのだろう。そういえば自分も悔やむことは多い。思いのままにならぬことや、どうもがいても無理なことに出会うと、力不足の自分だと認めるしかない。ただそのままの状態だと元気が出ない、前に向かって進んでいく気持ちにならない、それが寂しい、だから今日は腹をくくって、よしわかった、それを受け止めようと、自分に言い聞かせた。この年になっても父親の子供であることには変わりがないから、そうしろと父親から言われたような気がした。実際には、父親役の自分が自分に言い聞かせているのかもしれない。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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