今日は日程が詰まって忙しく、このブログを書きはじめる時刻も遅くなってしまった。当たり前だが、1月も中旬を過ぎれば平常通り仕事は動くので、なかなか身も心もついていかないのは誰も同じだろう。昨日から審査系の仕事が入って、1月はかなりの時間が費やされ、頭もそこに集中する。昨日は午後1時から5時まで、今日は午前9時半から12時まで、びっしりと詰まっていた。自分のような年齢になると、前もってかなり準備していないと、急には対応できず焦ってしまうので、相当に時間をかけて準備していたので、それなりに対応できた。ただ世の中は待ってはくれないので、その間にいろいろな仕事をこなさなければならない。メールを見る毎に翻弄される。頭は働いても、使う部位が違うので、本調子になるまで時間がかかるのだ。だからどうしても遅れてしまう。そこが若い頃と違うのかもしれない。お昼はパンとスープで済ませたが、昼食時はテレビ番組を見る。トランプ大統領の就任演説やフジテレビの不祥事など、世の中は静まることはなく絶えず動いている、というより暴風雨のように荒れている。自分のような平凡な人間でも、小さな波はやってきて、喜んだり悲しんだり右往左往しながら時間が過ぎていく。このブログでも、元気な時もあれば、落ち込んでぼーっとしていたい時もある。人は誰でも、小さな躁と鬱を繰り返しているのかもしれない。今日はどうだったのだろうと振り返ってみても、あまり大したことはなく、それなりに対応してきた。それでもうまくいった時は有頂天になるような気持ちで、うまくいきそうもないことは少し不安になる。お昼時に家内と、末期癌と宣告されても、まだ命の続く限り仕事を続ける著名な経済学者の話をして、すごいなあと感嘆した。その話を聞いて、自分の不安などはちっぽけなことで、一笑に付されてしまう。考えてみれば、凡人が抱えていることは、すべて小さな小さなことでしかすぎない。それをまるで妄想のように大きく考えてしまうところが、凡人たる所以であろう。あの経済学者は最後の力を振り絞り、全力で余命を生き抜くのだろう。文脈は離れるが新聞に、傾きて急反転し独楽止まる(野々村澄夫)の句があった。確かに独楽(コマ)の動きはこの通りである。恐縮ながら、先の経済学者の生き様は独楽を思い出させる。一日でも一時でも生き長らえて大往生してもらいたいと、陰ながら祈りたい気持ちになった。自分が尊敬してやまない大先生も、亡くなる前までベッドで原稿を書かれていたと聞いた。世の中には本当に素晴らしい人がいて、命のかぎり研究や仕事に身を捧げる。不遜ながら、たぶん本人はそれが自然であり幸せな時間を過ごしているのかもしれないと推測した。そう思えば、例え自分にとって都合が悪いことであっても、そんなことは小さい小さいと思うしかないだろう。
