今は火曜日の夕方、書斎の窓から見る外はもう真っ暗で、いつもこのブログに書くように、マンションの灯りが規則正しく輝いて、今日も一日終わったことを無言で教えてくれる。昨日までの3連休の後で、どこか仕事始めのような気持ちすら起きた。子供たちも連休の後は、登校するのに少しエネルギーが要るかもしれない。今日の午前は学校訪問があって、子供と同じような思いをしたが、帰宅すれば、あー行って良かった、いろいろなことを先生と生徒から教わった、その後コメントを書いてメールで送ったら、充実感で満たされた。なんでも行動する前は心が動き出さないのだ、しかしエンジンがかかってしまえば、後はいつものように快適に動いていける。最初の一歩が肝心だということくらい、誰でもわかってるが、その一歩が難しい。それでも車が運転できるだけ、足が動くだけ、言葉が喋れるだけ、メールを出せるだけで、充分ありがたいではないかと思う。年齢と共に、体が動かなくなったり、認知症になったり、老人性うつ症状になったりする、つまり体と知能と心が少しずつ弱っていくのが、年を取るということなのだろう。そんなことは当たり前のことだが、自分はなんとなくまだ実感していない。だから思いのまま行動している。午後はオンラインの会議が2つあって、夕方の最後の仕事がこのブログ書きである。自分の心の中に、葛藤がある。先ほどの学校訪問のように、躊躇する気持ちと行って良かったという2つの気持ちが入り混じっている。若い頃は、よしやってやろうという心が前に出て、行動もそれに伴うのだが、年を取るにつれて、心が入り混じってくる。つまり100%の意欲が40%に下がり、実際に行動した後では65%ぐらいに上がり、コメントなどを書いて自信をつけると、まだ自分も大丈夫かと思って80%ぐらいに達する。まるで振り子のように揺れ動いている。昼食の時に、家内が風邪をひいてまだ本調子ではないので、年をとるとつまらない、などの話をした。自分も若い時と比べると、だんだん影が薄くなってくるような気がすると話した。それでいいのかもしれない。それでも何かやりたいという意欲だけはあるので、まだマシかと自嘲したリする。文脈は離れるが新聞に、湯豆腐の端に悲しい野菜たち(山田隼人)の句があった。そうか料理にも主役と脇役があるのか。テレビドラマでも仕事でも研究でも、確かに主役と脇役がある。年を取ると、やがて舞台にもたてず観客する側に回る。この句の作者は脇役は悲しいと詠んだが、果たしてどうだろうか。どちらが幸せかはわからない。自分は今は多分脇役か観客だろうと思うが、それなりにまだ存在感はある。今日の学校訪問では、先生や生徒達が主役で自分は観客であった。しかし観客が舞台に向かって拍手を送ると同じように、自分は先生宛てにコメントを書いてメールで送った。自分で言うのは面映ゆいが、長い間の経験を積んだ新聞記者の演劇鑑賞のようなものであり、時に鋭く時に優しく批評する、それはそれで意義があるのではないだろうか。自分は、これからもその役目を果たしていきたい。それが自分ができる小さな学校への恩返しである。
