今は土曜日の夕方、といっても今日は12月21日なので冬至である。昼の時間が最も短い日なので、書斎から見る窓の景色は、夜なので碁盤の目のようなマンションの明かりがよく見える。いつものことながら土曜日曜は、スポーツジムに行くことにしている。先週は風邪をひいていて控えていたが、もうすっかり元気で今日はジムに行った。このブログで何度も紹介しているが、運動をするといろいろなモヤモヤが晴れてきて、前向きなアイディアが出てくる。頭の中で、ああでもないこうでもないと考えてみても仕方がないのだ。研究ならそれは正統的な方法論であるが、仕事のことや世の中のことは、この方法論は通用しない。むしろ体を動かしすっきりした状態の方が、雑念がふっきれて中心が見えるようだ。誰でも感じるように、運動選手は、物事を単純に割り切って考えるような気がする。いろいろ考えても仕方がない、イエスかノーかのような割り切り方が、世の中のことではむしろ正解に近づく道かもしれない。自分の性癖なのか、何かことが起きると、何故だろうか、背景は何があってその仕組みから考えるので、まるで電気回路をたどるようにして電球がつくかつかないかを判断しているような気がする。世の中のことはそうではないようだ。むしろ直感的に判断して決める方が良いかもしれない。昔、直感の方が上手くいくという本を読んだことがある。多くの事例を元に解説していた専門書だが、説得力のある本であった。野球選手がバッターボックスに立てば、迷っている暇もなく直感に従って即座に判断しているだろう。どんなスポーツでも同じだろう。だから今日スポーツジムに行ったので、スポーツ選手のやり方のおすそ分けをもらったのかもしれない。このところずっと頭を悩ませていた仕事上の問題があった。それが今日帰宅してからふとこれでいいのだと思った。それが正解かどうかわからない。しかし気持ちがスッキリりしたことは確かである。スッキリした頭で考えれば、中途半端な状態よりも確かな選択をするはずである。歳をとってくると、一般的には花が風に吹かれて揺れるように、世の流れに沿って生きていくことが多いと思うが、それが本当に良いのかどうかはわからない。一言で言えば、それは妥協かもしれないし、自分の本心ではなく世間に合わせている姿かもしれない。文脈は離れるが新聞に、やさしくてさびしき花と思うなり吹かれるままに揺れるコスモス(代靖子)の句があった。可憐なコスモスが眼に浮かぶが、作者もさびしき花と読んだように、どこか本心ではない生き方を感じたのかもしれない。どんなに歳をとったとしても、まだ生きている。生きて仕事をしている以上、右か左かを決めなくてはならない立場に立たされることがある。その時はコスモスではなく、しっかりした梅のように凛として意思決定をしたほうが良いと思った。年寄りになればなるほど枯れ木に近くなるが、風に吹かれて折れる時は往生する時だが、それまではまっすぐに立っていたい。
